成田山新勝寺
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2月15日 - 高浜虚子が参詣する[10]

9月8日 - 正岡子規が請われて成田山句会の催主となる[10]


1901年(明治34年) - 山内に俳句結社の蛍雪会が結成される[11]

1902年(明治35年) - 大隈重信ら18人が参詣する[12]

1903年(明治36年) - 北白川宮成久王久邇宮稔彦王久邇宮鳩彦王が参詣する[9]

大正時代

1925年大正14年) - 第18世住職・荒木照定が、初の海外視察を行う/場所はロンドン

昭和時代

1928年昭和3年) - 欧米偏重の風潮を嘆く荒木照定が、新更会を結成。
中山競馬・千葉県観光案内地図(昭和5年) 成田不動がイラスト入りで紹介されている

1938年(昭和13年) - 成田山開基一千年祭の開催。1940年(昭和15年)が千年であるが、国家の一大行事である皇紀2600年の大典が執り行われるため、国家行事と重なることにより、寄付金・寄付者が少なくなるのを避けるため、前倒しして千年祭を実施した。海軍機を納し、陸軍機「新勝号」の命名式を執り行う。

1943年(昭和18年) - 当寺が、奥の院境内より伐採した1000本の木材を、造船用材として日本海軍に献納する。

1944年(昭和19年) - 日本海軍水路部が、当寺の新更会館(現・霊光館)へ移駐する。

1946年(昭和21年) - 当寺が大本山へ昇格。

1960年(昭和35年)5月 - 新勝寺の縁起地である尾垂浜(千葉県山武郡横芝光町尾垂浜)にて、寛朝大僧正の聖蹟顕彰を旨とした「成田山不動尊の上陸記念碑」の造立。

1964年(昭和39年)5月26日 - 本尊の木造不動明王及二童子像が、「木造不動明王及二童子像(本堂安置)」の名称で、国の重要文化財に指定される[6]

1965年(昭和40年)6月18日-三重塔わきに建っていた第一額堂(三升額堂)が心無い一成田市在住の青年の放火により全焼。成田市では国宝である法隆寺金堂の火災により制定された1月26日の全国統一の文化財防火デーではなく、6月18日に市独自で文化財防火デーとしている。

1968年(昭和43年) - 古い本堂(現・釈迦堂)に替わる新たな本堂「大本堂」の建立[8]

1975年(昭和50年) - 境内にて、光輪閣の建立。

1976年(昭和51年)2月3日 - 毎年の節分の日にはNHK大河ドラマの出演者が新勝寺恒例の「特別追儺豆まき式」に参加しているが、この年に限っては、ドラマが平将門を主人公とする『風と雲と虹と』であったことから、出演者は参加を見合わせた。

1984年(昭和59年) - 平和大塔の建立。

1988年(昭和63年) - 成田山開基一千五十年祭の開催[8]

平成時代

1998年平成10年)4月 - 新勝寺の縁起地である尾垂浜(千葉県山武郡横芝光町尾垂浜)にて、成田山浪切り不動尊像の造立。

2007年(平成19年)11月28日 - 総門の建立/開基1070年記念事業の一環として。

2008年(平成20年)4月 - 成田山開基1070年を迎え、開基1070年祭を実施[13][14]/正確には開基1068年にあたるが、1938年(昭和13年)に開基1000年祭を祝っていることから2008年は開基1070年としている。

2018年(平成30年)4月 - 成田山開基1080年祭を実施[13][14]

令和時代

2021年2月18日、第21世貫首・橋本照稔が遷化。94歳没[15]

伽藍三重塔(重要文化財)総門

境内は広く、新旧の様々な伽藍が立ち並び、庶民の信仰の場の雰囲気を残している。江戸中期?末期の建築である仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂の5棟が国の重要文化財に指定されている。

成田駅及び京成成田駅の「参道口」から新勝寺への参道が延び、門前町をなしている。参道を10分ほど歩き、急な石段を上った先の台地上に伽藍が広がる。石段の途中に仁王門、石段を上った先の正面に大本堂、その手前右手に三重塔、鐘楼、一切経蔵などが建つ。この他、大本堂の左手に釈迦堂、大本堂背後の一段高くなった地には額堂、三社、光明堂、清瀧権現堂、開山堂、平和の大塔などが建つ。境内の東側は広大な成田山公園[16]になっている。
総門


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