成瀬の遺作は1967年、司葉子、加山雄三主演の『乱れ雲』であった。1969年、成瀬は直腸癌のため63歳で没した。墓所は世田谷区円光寺。なお、成瀬は闘病中に見舞いに訪れた高峰秀子に「白一色の幕を背にして高峰秀子が一人芝居をする」という奇抜な作品の構想を語ったが、ついに実現しなかった。これについては、成瀬と多くの作品でコンビを組んだ名カメラマンの玉井正夫が後年のインタビューで、「その発言は、成瀬さんが死ぬ間際に弱気になっていたからこそ出た言葉ですよ。成瀬さんは、高峰秀子を個人的には好きではなかったですよ」という発言をしている。
成瀬の生誕100周年にあたる2005年には、DVDボックスのリリースや関連書籍の出版、各地の名画座での特集上映などが行われた。 成瀬は女性映画の名手として知られており、とくに高峰秀子とのコンビによる多数の作品を手がける。また、小津映画によって神話化された原を『めし』『驟雨』で起用し、市井に生きる飾らない妻の姿を生き生きと演じさせた。 また幸田文が原作の『流れる』では高峰のほか、田中絹代、杉村春子、山田五十鈴、岡田茉莉子、中北千枝子、そしてサイレント映画女優の大女優である栗島すみ子が共演を果たしている。 他に戦前では水久保澄子・忍節子・入江たか子・岡田嘉子、戦後では若山セツ子・杉葉子・久我美子・高峰三枝子・木暮実千代・香川京子・淡島千景・新珠三千代・草笛光子・有馬稲子・団令子・水野久美・淡路恵子・司葉子・星由里子といった女優が彼の映画で輝きを放っている。 スター男優の意外な起用にも長けており、三船敏郎も『石中先生行状記』『妻の心』で黒澤映画で見せる男性的魅力とは異なる側面を見せ、三國連太郎は『夫婦』『妻』で奇妙な味わいを残した。戦前の松竹のスターである上原謙も『めし』以降の諸作で、山村聰とともに飾らない中年男性の姿を手堅く演じ続けた。晩年の『乱れる』と『乱れ雲』では、『若大将』シリーズで人気絶頂だったスター加山から繊細な演技を引き出したことも特筆に値する。 また、小林桂樹に殺人犯として主役を務めさせたり(『女の中にいる他人』)、その風貌から篤実、凡庸な性格の役回りが多い加東大介に結婚詐欺師(『女が階段を上る時』)や若い女と駆け落ちを繰り返す亭主(『女の座』)を演じさせるなど、名脇役として知られる俳優についても意外な一面を引き出している。 数は少ないが、『まごころ』『秀子の車掌さん』『なつかしの顔』『秋立ちぬ』など子どもを主人公とした情感豊かな佳作も手がけている。特に『秋立ちぬ』は、主人公に成瀬本人の幼少時代が重ねられているという意味でも、貴重な作品である。 成瀬の映画を支えていたのは東宝の映画撮影所の優秀な人材によるところも大きく、それは美術監督を務めた中古智による『成瀬巳喜男の設計』に詳しい。成瀬は美術に中古、撮影に玉井正夫、照明に石井長四郎、録音に下永尚、音楽に斎藤一郎、といった「成瀬組」と呼ばれた固定スタッフでの作業を好み、また彼らもそれぞれの持つ一流以上の技術で成瀬のもとを支えた。脚本には水木洋子が多くの作品で貢献している。 また成瀬は非常に時代性を意識した監督であり、作中にさりげなく当時の世相を盛り込むことが多かった。一例として『乱れる』での個人商店とスーパーマーケットとの価格競争や、『妻として女として』で妻や家族が「三種の神器」を欲しがるシーン、などがある。こうした設定が伏線として、話の本筋に活かされることも多い。 一方、戦後の作品では街頭シーンでチンドン屋が登場することが非常に多い。ほとんどは話に絡むことがなく(『めし』でわずかに登場人物が言及する程度である)BGMとしての意味合いも兼ねていたが、成瀬自身が特に好んで取り上げていたと言われている。 成瀬の映画で国内外を問わず最も高い評価を受けているのは『浮雲』であるが、『浮雲』はその重い雰囲気、こってりとした画調などが成瀬作品として異質であり、『浮雲』をして代表作とするべきではないという意見もある。成瀬も『浮雲』を自身の最高傑作とは見なしていなかったといわれている。 成瀬はスタッフには慕われていたが、無口な性格で付き合いをほとんど持たなかった。情趣に富んだやるせない作風のため、姓名をもじって「ヤルセナキオ」とあだ名された[2]。成瀬の下で助監督の経験をし、自身も成瀬映画のファンであった石井輝男も成瀬のことを大学教授のような物静かな人と語っている。 映画撮影は几帳面におこなわれ(ただし撮影の段取り、コンテニュイティは誰にも見せず)、撮影予定日数以内に必ず納め、また毎日の監督の作業時間は朝の9時から夕方の4時45分であり、近くのレストランの定席でコップ酒を口にすると5時の撮影所のサイレンが鳴る、という撮り方だった[3]。『秋立ちぬ』で助監督を務めた中野昭慶は、成瀬の演出は即編集できるものとなっており、フィルムに無駄がなく勉強になったと語っている[4]。 成瀬は国内では生前から一定の評価を得ていたが、それは個性的な映画作家というより、むしろ職人監督としてであった。 成瀬に関しては、後に松竹社長となる蒲田撮影所の城戸四郎所長が「小津は二人いらない」と言ったという伝説がある[5]。その小津は成瀬が監督した『浮雲』を「俺にはできないシャシンだ」と賛している。また溝口健二は「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね」[6]と評している。 かつて教えを受けた石井輝男は不肖の弟子と自ら認めているが、「映画は映画館で上映される数週間だけの命である」とする成瀬の姿勢に敬意を払っていた。 黒澤明も自伝の中で自身が助監督についた『雪崩』の撮影での成瀬について、撮影中の時間の使い方など全く無駄が無く「なにもかも自分でやってしまうので、助監督は手持ち無沙汰だった」と振り返っている。また、成瀬の監督としての仕事振りについても「映画のエキスパート」「その腕前の確かな事は、比類がない」と評している。黒澤のスクリプターとして多くの黒澤作品に参加している野上照代は「黒澤さんが一番尊敬してたのは間違いなく成瀬さん」と自著に書いている。 成瀬の国際的名声が高まったのは死から10年以上もたってからで、川喜多かしこのような熱心な映画ファンの尽力により1983年のロカルノ国際映画祭で特集上映プログラムが組まれて以降である。その後、1988年では香港国際映画祭で、1998年にはサン・セバスティアン国際映画祭で特集上映が組まれた。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』は、成瀬のことを小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えた。 1990年には成瀬の映画の美術を多数担当した中古智と蓮實重彦とのインタビュー『成瀬巳喜男の設計』が筑摩書房から刊行される。ジャン・ピエール・リモザン、レオス・カラックス、ダニエル・シュミット、エドワード・ヤンといった映画監督たちが成瀬に敬意を表している。シュミットはドキュメンタリー映画『書かれた顔』で『晩菊』の一部を引用し、主演の杉村へのインタビューを果たした。 成瀬の系統的な評価に関しては、長く「戦中戦後にスランプの時期があったが、『めし』を契機に復活を果たし女性映画の名手となった」とする意見が支配的であった。しかし、近年は戦中作品を中心に評価が向上しつつある。 1953年までの作品は著作権の保護期間が完全に終了した(公開後50年と監督死後38年の両方を満たす)と考えられている。このためいくつかの作品が、格安DVDで発売されている。 公開年作品名製作 / 配給脚本、脚色(原作)主な出演者上映時間ほか
作風
評価
監督作品
1930年チャンバラ夫婦松竹蒲田赤穂春雄吉谷久雄、吉川満子、青木富夫、若葉信子白黒
サイレント
純情
サイレント
不景気時代
サイレント
愛は力だ