変法運動の担い手の多くは、日本の明治維新を模範としていた。とりわけ黄遵憲は、1877年に日本に清朝の公使館が開設された際に参賛官として訪日しており、そのときの見聞をもとに『日本国志』を著している[13]。同書では、明治維新の分析や、頼山陽の『日本外史』を参照した日本史の叙述が行われている[13]。『日本国志』は、1877年に完成して総理衙門や李鴻章・張之洞に贈られたが、その時は必ずしも話題にならなかった[13]。一方で、1895年に梁啓超が序文をつけて出版すると、日清戦争により日本への関心が高まっていたこともあり話題になった[13]。1898年の第六上書では、康有為が『日本国志』をもとに著した『日本変政考』が添付された[13]。なお、明治維新だけでなくピョートル1世のような啓蒙専制君主も模範とされており、同じく第六上書では『大彼得変政記』(大ピョートル変政記)も添付されている[14]。
変法運動が進展するなか、中央政府に先立って、湖南省の地方政府において改革が実践される[15]。その湖南の改革を担った官僚として、陳宝箴・江標(中国語版)・黄遵憲・唐才常らがいる[15]。また、湖南を代表する郷紳で、著名な儒学者でもある王先謙は、自身が院長を務める書院「嶽麓書院」で、上記の『時務報』を学生に推奨するとともに、1896年には他の郷紳とともに「時務学堂(中国語版)」を創設した[15]。王先謙はさらに、湖南出身の譚嗣同の斡旋で梁啓超を湖南に招聘し、1898年には時務学堂を拠点とする学会「南学会」を結成する[15]。この南学会において、梁啓超らは纏足廃止や議会開設などの言論を発信した[15]。しかしながら、同じく湖南の郷紳で儒学者の葉徳輝らは、そのような梁啓超の言論に反発し、伝統儒学の立場から批判を展開した[15]。そのような葉徳輝を含む変法批判者たちの言論は、後に『翼教叢編(中国語版)』として書物にまとめられた。
戊戌の年
戊戌の変法中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。明定國是詔
1898年6月11日、朝廷内の保守派の筆頭だった恭親王奕?の死などをきっかけとして、光緒帝は「明らかに国是を定める」という詔勅(明定国是詔(中国語版))を下した[4]。そして同日から9月21日までの103日間、康有為らを中心的な官僚として、憲法の制定、国会の開設、科挙の改革、京師大学堂(北京大学の前身となる近代的大学)の設置、軍の近代化・工業化といった様々な改革、すなわち「戊戌の変法」が実行された[4]。 変法は、あまりに急激で全般的な改革であったために、改革に対し周囲から危惧・懸念の声が相次いだ。批判の背後には、改革の進行によって手放さざるを得なくなる政治権力や既得権益に対する危機感があった。すなわち西太后の眼には、康有為らが導入を目指す憲法や議会制度は、自らの政治権力に掣肘を加えるものとして映じたであろうし、明治日本に倣った官庁の統廃合は官僚の頭数の整理でもあるため、官僚層の反発を招くものであった。 指導的立場の康有為が、経学の傍流である今文公羊学派であったのも孤立を招いた一因かもしれない。当初変法に好意的であった両江総督劉坤一や湖広総督張之洞・孫家?も朝廷内で支援的立場を執れなくなってゆく。彼らは、康有為の今文公羊学に先鋭的過ぎると警告しながらも、変法に賛同したのであるが、性急かつ極端な京師大学堂の教育内容や孔子紀年をめぐって批判の高まった康有為から次第に距離を置き、朝臣及び政府高官としての立場から張之洞は中体西用的改革思想の集大成ともいえる『勧学篇』を急遽刊行し、その中で康有為を批判している。 変法開始冒頭に、光緒帝の家庭教師でもあり、且つ改革を背後から支えていた総署大臣翁同?が、西太后によって無理矢理解職・引退させられていることからも明らかなように、光緒帝等変法派はもとから政治的に劣勢であった。それに加えて、在京・地方の大官たちが変法から距離を置くようになれば、光緒帝等変法派と西太后一派との権力バランスが一気に崩れるのは火を見るより明らかであったといえよう。光緒24年の陰暦7月・8月の時点でクーデターは誰の目にも時間の問題として捉えられていたのである。 西太后は栄禄に首都の軍隊を率いさせクーデターを準備してたが、変法派も対抗して軍隊によって西太后派を拘束し、実権を握った上での改革実行を立案した。新建陸軍の指揮官であり、変法にも早くから理解を示していた袁世凱(彼は一時康有為の政治団体である強学会に所属していた)を昇進させる等の準備も行っている。8月3日(9月18日)譚嗣同が袁の私邸で説得を行い、袁も了承した。 ところが8月5日(9月20日)、西太后の側近栄禄が袁世凱を詰問すると情報をリークした。西太后は翌日から変法派官僚の大粛清を行った。康有為、梁啓超らはいち早く逃亡して日本に亡命した。しかし光緒帝は幽閉され、譚嗣同ら6人の官僚は8月13日(9月28日)、北京城内の菜市口で処刑された。譚嗣同は逃亡の勧めを断り、「改革の礎になる」と自ら捕らわれ処刑されたという。このとき処刑された主要な変法派6人(譚嗣同・林旭・楊鋭・劉光第・楊深秀・康広仁)は「戊戌六君子」と呼ばれる[16]。 変法に失敗した康有為・梁啓超らは、日本に亡命した。以降の彼らは「保皇派」と呼ばれる[注釈 2]。保皇派とは、清朝(皇帝制度)を維持したまま、憲法制定等の改革によって、中国の近代化、立て直しを図るべきと考える立場の人々のことであり、孫文・章炳麟ら「革命派」と対になる言葉である。 彼らが亡命中の1899年に、「保皇会」(zh 保皇派に属する者としては上記の康有為と梁啓超以外に羅伯堂
戊戌の政変
クーデターに至る経緯
クーデター
その後
保皇派梁啓超(1903年、日本)「梁啓超#日本亡命と言論活動(1898-1911)」および「章炳麟#康有為・梁啓超との論争」も参照
光緒新政詳細は「光緒新政」を参照
1900年から1911年、すなわち義和団の乱の終了から清帝国滅亡まで。
民国初期「梁啓超#中華民国と政界活動(1912-1920)」および「康有為#生涯」も参照
1911年の辛亥革命を経て中華民国が成立すると、康有為・梁啓超らは亡命生活を終えて、晴れて帰国する。しかしその後も、袁世凱に対する政争(籌安会・護国戦争)や、儒教をもとにした宗教を民国の国教にしようとする運動(孔教運動)や、張勲復辟(清朝の復興未遂事件)に関与していくことになる[17]。