類型該当するもの 制定の主体に着目して憲法を分類することもある。 類型該当するもの 近代の立憲的憲法は内容面においては人間の権利と自由の保障とそのための国家組織の制度化(具体的には権力分立)によって具体化されるものである[27]。これはグロチウス、ロック、ルソー、モンテスキューなどによる自然権思想や権力分立論などを背景とする[27]。 立憲的憲法は形式面ではほとんどが成文憲法をとっている[28]。その理由は近代合理主義のもとで成文法は慣習法に優ると考えられ、新しい権力関係を樹立するためには新たな政治機構の骨組みを書き留めておく必要があった[28]。また、国家は自由な国民の社会契約によって組織されるという社会契約説のもと、この社会契約を具体化したものこそ根本契約としての憲法であり文書にしておくことが望ましいと考えられたことが成文憲法の発生と普及の大きな要因となった[28]。 また、立憲的憲法は性質面では一般に法律よりも改正が難しい硬性憲法となっている[29]。憲法は権力(特に立法権)を法的に制限することによって不可侵で不可譲の自由を保障する普遍的な実質的価値を内在するものだからである[29]。ただし、フランスの憲法思想ではフランス人権宣言6条が「法は一般意思の表明である」という考え方が強く憲法と法律との区別は徹底されてはいなかった[30]。これに対しアメリカの憲法思想は独立時にイギリス議会や州議会による不当な権利・自由に対する制限への反発が強く、立法権への不信から立法権は制限されるべきと考えられ、憲法と法律との区別がフランスやドイツよりもはるかに明確に現れることとなった[31]。 近代憲法の多くは人権規定と統治機構の両面で構成される。人権規定については、その後、環境権、プライバシー、知る権利など、新しく生まれた概念が盛り込まれた憲法も多い[26]。 憲法が国法秩序の段階構造で最も強い形式的効力をもつ規範であることは通常の法律改正よりも難しい憲法改正手続きが要求される硬性憲法のもとでは当然のことである[32]。そこで憲法の最高法規たる本質は憲法が実質的に法律とは異なる点に求める必要があり、それが次の実質的最高法規性である[32]。 憲法の最高法規性の実質的根拠は、憲法が自由の基礎法として、人間の権利・自由をあらゆる国家権力から不可侵なものとして保障するという理念に基づきその価値を規範化したものという点にある[33]。 憲法の実質的最高法規性を重視する立場では、人権体系を憲法の根本規範と解し、憲法規範には価値序列があることを認める[34]。「堅固に保護された条項」も参照 なお、一部のイスラム教国ではイスラム教の教典であるクルアーンが憲法と位置づけられている。1992年3月のサウジアラビアでは統治基本規則第1条で「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と定められており、イスラム教の教典が不文憲法となっている国である。このため、いかなる手続きをもってしても、絶対に憲法を改正することはできない。「シャリーア」も参照 多くの近代国家では法律は憲法の規定を満たす範囲で公布されるため、初等的な法学の教書では「憲法は法律の法律である」等と説明される。より一般的には上述したような歴史的経緯などから、多くの国では、憲法は「国民が国家に守らせる法」であり、法律は「国家が国民に守らせる法」であると捉えられている。このような解釈により、国民主権の国では必然的に憲法は法律よりも優先される法となるため、結果的に法律は憲法に基づくことが必要となる[35][36]。「立憲主義」も参照
硬性憲法憲法改正手続に普通の法律改正以上に厳格な手続を要求する憲法。
軟性憲法憲法改正が普通の法律改正と同様の手続で行いうる憲法。
制定主体による分類
欽定憲法君主によって制定された憲法(大日本帝国憲法など)。
民定憲法(直接または間接に)人民によって制定された憲法。
協約憲法君主と人民により制定された憲法。
条約憲法連邦国家の憲法がその構成主体間の条約によって成立した場合のもの(ビスマルク憲法、アメリカ合衆国憲法など)
近代憲法の特色
最高法規性と国法秩序
形式的最高法規性
実質的最高法規性
法律との関連
著名な憲法学者日本の著名な憲法学者については「日本の法学者一覧#憲法」を参照「Category:憲法学者」も参照
ゲオルグ・イェリネック(ドイツ)
ハンス・ケルゼン(オーストリア)
カール・シュミット(ドイツ)
ルドルフ・スメント(ドイツ)
コンラート・ヘッセ(ドイツ)
パウル・ラーバント
パウル・キルヒホフ
ディーター・グリム
エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデ(ドイツ)
ローレンツ・フォン・シュタイン(ドイツ)
クラウス・シュテルン(ドイツ)
フィリス・シュラフリー(アメリカ)
アルバート・ヴェン・ダイシー(イギリス)
ホルスト・エームケ(ドイツ)
アデマール・エスマン(フランス)
レオン・デュギー(フランス)
クリストフ・メラース(ドイツ)
エルンスト・フォルストホフ(ドイツ)
フーゴー・プロイス(ドイツ)
ヘルマン・ヘラー(ドイツ)
レイモン・カレ・ド・マルベール(フランス)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ このように元来、日本にはこれに相当する「国家の基本法」という概念がなかった。穂積陳重の『法窓夜話』によれば、憲法という日本語は、伝統的には単に「法律」の同義語か「厳しい法(いつくしきのり)」「道理」という意味でしかなかった。1873年(明治6年)に、箕作麟祥がフランス語の「Constitution」に「憲法」なる訳語を当てたのが始まりという。その後も「国憲」など別の訳語が当てられるときもあったが、明治17年になって伊藤博文が大日本帝国憲法の編纂に着手した際に「憲法」という語彙が確定したという。なお、1874年(明治7年)には地方の政治に関して「議院憲法」という名称の詔勅が出ている[6]。
^ 十七条憲法は、成立時期などについて議論がある。詳細は十七条憲法を参照
^ 小森義峯は以下のように述べ、十七条憲法は「実質的意味の憲法」かつ「固有の意味の憲法」としている[7]。
立憲政体ではないが、臣(公務員)が遵守すべき規範を成文で定めていることから国家の根幹法たる性格を有するとして、マグナ・カルタが成文憲法であるのと同じような意味で成文憲法といえる。