慶應義塾
法人番号4010405001654
慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福澤諭吉が1858年に中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークは、ペンマーク。 中国においては、「義塾」とは公衆のために義捐金で運営される学費不要(無月謝)の学塾を意味し、14世紀半ばの元末に書かれた陶宗儀『輟耕録』にみられるという[1]。 日本における「義塾」の先駆は、天明7年(1787年)、のちに蝦夷地探検で功績を挙げる当時17歳の近藤重蔵が、同志と協力して年少子弟のために開いた私塾の名称「白山義塾」であるとされる[2][注釈 1]。また、掛川藩儒員松崎慊堂の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825年)1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて「義塾の事を議す」とあり、さらに、寺門静軒が天保3年(1832年)に著した「江戸繁盛記」4篇学校の項には、「官学外儒門の義塾」との用例があるという[3]。蓋此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く ? 「慶應義塾之記」より 「彼の共立学校の制」とは、英国のパブリックスクールを指すものとされ、従って慶應義塾の「義塾」とは、中国伝統の語に英国の近代私立学校の概念を付加したものと解されている[1]。 明治時代には、慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、『慶應義塾百年史』 下巻によれば[4]、同塾以外にも、幕末期に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。「明治時代の義塾の一覧」を参照 従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤諭吉は「一身の独立なくして一国の独立なし」[5]と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条[6])。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本をいい表すものともされる[注釈 2]。 「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味であると誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日にいう「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる[7]。「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学、工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。
「義塾」の意味
塾訓「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
慶應義塾大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福澤の言。なお、三田キャンパス・ステンドグラスにも同文が明記されている
独立自尊
実学の精神