慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである[9]。内容は以下の通り。慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして之を口に言ふのみにあらず躬行実践以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書
この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明にいい表したものと解されている[9]。
設置している学校ビジネススクール(旧校舎)
大学
慶應義塾大学(三田、日吉、矢上、信濃町、湘南藤沢、芝共立の各キャンパス、およびサテライトキャンパスとして新川崎タウンキャンパス、殿町タウンキャンパス、鶴岡タウンキャンパス、浦和共立キャンパス、慶應大阪シティキャンパス、慶應丸の内シティキャンパス) - 男女共学
中学校、高等学校併設校
慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部(神奈川県藤沢市) - 男女共学、中高一貫校
高等学校
慶應義塾高等学校(神奈川県横浜市) - 男子校
慶應義塾女子高等学校(東京都港区) - 女子校
慶應義塾志木高等学校(埼玉県志木市) - 男子校
慶應義塾ニューヨーク学院(ニューヨーク州ウェストチェスター郡) - 男女共学
中学校
慶應義塾普通部(神奈川県横浜市) - 男子校
慶應義塾中等部(東京都港区) - 男女共学
小学校
慶應義塾幼稚舎(東京都渋谷区) - 男女共学
慶應義塾横浜初等部(神奈川県横浜市青葉区) - 男女共学
慶應義塾高等学校
慶應義塾普通部
設置している病院
慶應義塾大学病院
過去に設置していた学校商工学校(1906年頃)看護婦養成所農業高校本館(1955年)
大阪慶應義塾(1873年 - 1875年) → 徳島慶應義塾(1875年 - 1876年)
京都慶應義塾(1874年 - 1875年)
慶應義塾医学所(1873年 - 1880年)
慶應義塾夜間法律科(夜間・1879年 - 1880年・同科を開設した相馬永胤ら4名が独立、専修学校に統合される形で閉鎖)
慶應義塾商業学校(夜間・1891年 - 1948年)
慶應義塾商工学校(1905年 - 1949年) → 慶應義塾中等部
慶應義塾日吉工業学校(旧・藤原工業学校、1943年 - 1945年) + 慶應義塾三田工業学校(1944年 - 1945年) → 慶應義塾工業学校(1945年 - 1949年)
慶應義塾大学予科(1920年 - 1949年)
慶應義塾高等部(大学専門部・1922年 - 1945年)[10]
慶應義塾獣医畜産専門学校(1944年 - 1949年) → 慶應義塾農業高等学校(1948年 - 1957年) → 慶應義塾志木高等学校
慶應義塾第一高等学校(1948年 - 1949年) + 慶應義塾第二高等学校(1948年 - 1949年) → 慶應義塾高等学校
慶應義塾大学附属医学専門部(1944年 - 1952年)
慶應義塾大学医学部附属看護婦養成所(1917年 - 1945年) + 慶應義塾大学医学部附属産婆養成所(1922年 - 1945年) → 慶應義塾大学医学部付属看護婦産婆養成所(1945年 - 1950年) → 慶應義塾大学医学部附属厚生女子学院(1950年 - 1990年) → 慶應義塾看護短期大学(1988年 - 2003年) → 慶應義塾大学看護医療学部