慶應義塾大学
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蘭学から適塾(後の大阪大学)、慶應義塾医学所北里柴三郎による伝染病研究所北里研究所満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、アメリカ合衆国ハーバード大学医学大学院と1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち[24]伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所連携、協力を行っている[25]

太平洋戦争終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、四書五経などの研鑽を積んだのち[26]数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。 

実学の精神である「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等[27]から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究まで行っており、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎない。

戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名出している。文系では、その他の官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している[28]

近年における各国の調査による世界大学ランキングでは、イギリスの『THE世界大学ランキング』(2022年)で私立総合大学1位、中国の上海交通大学による『世界大学学術ランキング』で私立総合大学1位、アメリカ合衆国のトムソン・ロイター社による『The World's Most Innovative Universities』で私立総合大学1位と、日本の私立大学ではトップの教育及び研究力を堅持している[29]
兵法
1895年(明治28年)、日清戦争における威海衛の戦い戦勝祝賀の慶應義塾炬火行列大運動会(カンテラ行列)

慶應義塾では新銭座時代から心身共に健康を保つ手段として学生の体育を奨励し、1892年(明治25年)の體育會(体育会)を創設[30]によって専門家を雇って指導にあたらせた。初めは乗馬が主であり、1878年(明治11年)から剣術稽古が始まり、1894年(明治27年)には神道無念流根岸信五郎を師範に招いた。のち柔術端艇、陸海軍操練、弓術徒歩の各部が加わった。

1896年(明治29年)徴兵令適用により学校に兵式訓練が課せられるに至るが、これより先に慶應義塾では兵式操練が行われており、1892年(明治25年)12月、大日本帝国陸軍(旧陸軍)から銃剣その他兵器の払い下げに特別の便宜を与えられ、1897年(明治30年)には「慶應義塾生徒隊」を結成し、1898年(明治31年)春に東京府下で初めて発火演習を行った[31]。なお、1898年には陸軍の軍旗旭日旗)を製作している高級軍装品店より特別の許可をもってこれを購入。旭日旗自体はそのままに、竿頭は塾章であるペンマーク(軍旗では菊花紋章)に、房を浅葱色常備歩兵連隊の軍旗では紫色)に変え、さらに福澤諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれ(軍旗では連隊の隊号を記入)、翌1899年3月15日に福澤別邸において隊旗授与式が行われている[32]

1937年(昭和12年)には「慶應義塾特設防護団」が組織され、1939年(昭和14年)には中国(当時は中華民国)の上海に研究所、北京に公館を創立。中国のほか南洋への学生研究旅行団が派遣され、1941年(昭和16年)には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。日露戦争では帝国軍人援護会を支援し、第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場、農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。

1941年(昭和16年)には各学部の選択科目として「国防学」を新設し、講師として軍事評論家伊藤正徳(1913年〈大正2年〉理財科卒)が招かれた[33]
塾生皆泳

かつては、全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンの下、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍の軍人の長男小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。

また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高等学校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
日吉台地下壕
地下壕入り口(日吉キャンパス)

戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧海軍)との間には深い関わりがある(当時の塾長は小泉信三)。1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省海軍航空本部海軍艦政本部日吉台地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。太平洋戦争大東亜戦争)における台湾沖航空戦レイテ沖海戦戦艦大和の出撃(坊ノ岬沖海戦)などの命令はこの日吉台地下壕から発せられたものであった[34]

ここまでの経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争支那事変)が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになった。授業では自由主義共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため[35]、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた[36][37])。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地海軍兵学寮海軍主計学校に転じた者も多い。

海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、まず1943年12月の学徒出陣が挙げられる。


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