慶應義塾大学
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1917年(大正6年)4月、慶應義塾大学部に医学科が開設され、初代の医学科学長[17][194]には北里柴三郎が就任した。北里は理想的な医学教育機関を作る為に、教授陣メンバーに北里研究所の所員を中心とする北島多一ら門下生と、秦佐八郎志賀潔らを加え、医学科予科の授業を三田山上で開始した。同年11月、慶應義塾は四谷の陸軍用地を購入し、1919年(大正8年)4月、医学科本科1年の授業を四谷の新校舎で開始した[195]。1920年(大正9年)、慶應義塾大学部医学科は大学令により「慶應義塾大学医学部」に昇格し(医学部長は北里が続けて就任)、大学病院が新たに開院した。北里柴三郎は「予は福澤先生の門下では無いが、先生の恩顧を蒙つたことは門下生以上である。故に不肖報恩の一端にもならんかと、進んで此の大任を引受けたのである。」と語り[196]、1928年(昭和3年)まで医学部長として慶應医学部を陣頭指揮し、その後も顧問として慶應医学部を支え続けた。また、慶應義塾大学部医学科の開設の時には、皇室から三万円、三井財閥から十万円の支援金を受けた。このように慶應義塾大学医学部は私立の中では唯一旧制医学専門学校からの昇格ではない私立医学部である。1906年(明治39年)に南満州鉄道株式会社満州国に大日本帝国が進出すると、教授・金井章次との関係から南満医学堂、満鉄衛生研究所に多くの教授を送り込んだ[197]。慶應義塾大学では看護学系が看護医療学部として分かれているため、医学部に医学科のみが置かれている。慶応医学部は、6年教育であり、日吉キャンパスで主に一般教養を、信濃町キャンパスで医学を学ぶ。2001年度入学生までは信濃町キャンパスが2年の秋学期一部から(2年次の秋学期の特定曜日のみ信濃町で解剖学などの実習)だったため、旧制大学時代に倣って1,2年を予科1、2と呼び、3、4、5、6年を学1、2、3、4と呼ぶ。基礎医学と臨床医学の連携の下、患者側の視点に立った臨床のための医学の発展を目的として設立されている[198]。医学部6年生の夏休みにアメリカのメディカル・スクールに短期留学できるほか、ラテンアメリカなどの医学部での交流プログラムがある。また、低学年の間にも海外の他大学との交流会(例:韓国延世大学校)などが用意されている。また、ロックフェラー財団からの慶應義塾への寄付は戦前戦後を通じてしばしばあり、なかでも医学部の受けた恩恵は特に大きく、昭和初年だけに限ってみても予防医学教室の建設、あるいは医学部関係の留学生派遣、いずれも同財団のフェローシップによるものであった。さらに、生物学の訪問教授招聴を準備し、それによってデューク大学の生物学教授パースら5名が来任し、医学部で講義を担当した。様々な経緯から、北里大学東京都済生会中央病院国立がん研究センター中央病院、国立病院機構東京医療センター東京慈恵会医科大学、国家公務員共済組合連合会立川病院など慶應義塾とゆかりの深い医療機関が多く存在する[注釈 43]
沿革

1870年(明治03年) - 慶應義塾の塾生
前田政四郎の希望により、福澤諭吉がイギリス式の医学所の開設を決定する。

1873年(明治06年) - 慶應義塾内に「慶應義塾医学所」が開設される。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を訓練の場所とした。

1880年(明治13年) - 慶應義塾医学所が閉鎖される。
昭和初期の医学部

1916年(大正05年) - 慶應義塾大学部に医学科の設立認可。

1917年(大正06年) - 慶應義塾大学部医学科が開設される[注釈 44]北里柴三郎が学長に就任[17]

1919年(大正08年) - 四谷区西信濃町に医学科新校舎を開設。

1920年(大正09年) - 大学令により医学科が医学部に昇格。慶應医学会発足。附属病院開設。

1937年(昭和12年) - 北里記念医学図書館が創設される。

1952年(昭和27年) - 新制大学医学部発足。北里柴三郎の生誕100周年。

1967年(昭和42年) - 慶應義塾大学医学部開設50周年。

2001年(平成13年) - 看護医療学部が開設される。

2008年(平成20年) - 共立薬科大学との合併により薬学部が開設される。

2017年(平成29年) - 慶應義塾大学医学部開設100周年。

使用キャンパス名称所在地備考
日吉キャンパス神奈川県横浜市医学部1年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。
信濃町キャンパス東京都新宿区信濃町2年生より6年生までは、ここで臨床医学を修得する。

理工学部詳細は「藤原工業大学 (旧制)」および「慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部」を参照
藤原工業大学
日吉キャンパス内の藤原工業大学開校の地記念碑1936年(昭和11年)、慶應義塾の塾長小泉信三ハーバード大学創立300年祝典に参列するために渡米した。そこで、小泉は各地の諸大学を視察し、急激に発展向上しつつあった工学一般の世界の趨勢を目撃し、慶應義塾も工学部設立が急務であることを実感した。これにより、当時、慶應義塾の理事であった槇智雄が中心となって工学部の設立の為の研究調査を開始することになった。一方、王子製紙の社長であり塾員でもあった藤原銀次郎は、各国の製紙工業などをつぶさに視察し、その長短を比較研究して、日本の製紙工業はもとより、日本の工業界全体の発展の為に自分は何をするべきか思いを巡らせていたが、たまたま1935年(昭和10年)、アラスカに出張した帰途、スタンフォード大学を見学し、この大学の歴史、教育、研究、大学の使命・社会貢献などに深い感銘を受けた。さらに日本国内の各大学の工学部も視察してその大学の特色を詳しく研究した。やがて、藤原は自分の思い描く理想的な工業大学を日本に設立して、それがあたかもスタンフォード大学のスタンフォードたらんとすることを密かに考えた。また、藤原はかねてより評議員として慶應義塾の教育にも深い関心を持っていた。こうして慶應義塾の意図するところと藤原の意図するところが一致した。小泉信三と藤原銀次郎との間では工業大学の設置構想について折衝が始まり、財団法人藤原工業大学の創立、その大学の教育・研究は慶應義塾が担当し、校舎は日吉の慶應義塾構内に建設することが決まった。そして、ついに、1939年(昭和14年)5月26日、国から設置の認可が下りて、同年6月17日、藤原銀次郎が理事長、小泉信三が学長、槇智雄が理事、となって「藤原工業大学」が開校した。当初は機械工学科電気工学科応用化学科の3学科だけの私立単科工業大学であったが、創立後、大学の一応の目的を達成した時、または藤原銀次郎が亡くなった時はこの藤原工業大学の全部が慶應義塾に寄付されることとなった。
理工学部(旧工学部)
1944年(昭和19年)に藤原工業大学は慶應義塾に寄付され「慶應義塾大学工学部」となったが、その時の日本は太平洋戦争の最中であった。1945年(昭和20年)4月、慶応の日吉キャンパスの上空には米軍爆撃機が襲来し、工学部校舎は米軍の空襲によって多くを焼失した。終戦後、慶応の焼け残った日吉校舎、寄宿舎は米軍に接収されてしまい、大学の授業再開は不可能な状態であった。この教育的困難に直面した慶應義塾大学工学部は新たな校舎を確保してスタートしなければならなかった。1945年(昭和20年)10月、慶應義塾大学工学部は目黒の旧海軍技術研究所を仮校舎として使用し(目黒仮校舎)、翌年6月には川崎市日本光学工業の工場を仮校舎として使用した(溝ノ口仮校舎)。1948(昭和23年)3月、慶應義塾は東京都北多摩郡小金井町にある横河電機製作所の工場の土地を取得し、翌年の1949年(昭和24年)ここを慶應義塾大学工学部の「小金井キャンパス」とした。そこは、製作所の工場をそのまま大学の校舎、研究室に転用しただけの粗末なキャンパスであったが、慶應工学部の教員、学生たちは各自手作りした工作機械、実験器具、椅子、備品、薬品、資料などを用意して日々の教育・研究活動に励んだ。その後、1957年(昭和32年)には計測工学科、1959年(昭和34年)には管理工学科が設置され、慶應義塾大学工学部は5学科体制となった。それと並行して、小金井キャンパスは北海道炭礦汽船から寄付された土地2千坪と合わせて、さらなるキャンパスの整備、拡大を目指した。


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