カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾であり、これは福澤諭吉の発案である[9][10]。また、古来日本の風習にはなかった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた[44]。
沿革「慶應義塾」も参照
前史福澤諭吉(1862年)慶應義塾発祥の地記念碑
(東京都中央区明石町)小幡篤次郎(左)と松山棟庵(右)旧島原藩藩邸中屋敷黒門。
明治4年(1871年)3月慶應義塾を新錢座から三田に移した。『学問のすゝめ』 初版
(1872年)
寛政09年(1797年) - 豊前国中津藩第5代藩主奥平昌高が藩校進脩館を設置。
天保09年(1838年) - 緒方洪庵が大坂船場で適塾を開く[45]。
天保10年(1839年) - 佐久間象山が神田お玉ヶ池に象山書院(五月塾)を開く。
嘉永06年(1853年) - 黒船来航。
嘉永07年(1854年) - 福澤諭吉が蘭学修行を志し、長崎に赴く。
安政02年(1855年) - 福澤諭吉が適塾に入る。佐久間象山門弟である中津藩江戸留守居役の岡見彦三[46]が築地鉄砲洲の藩邸内に杉亨二、松木弘安(寺島宗則)らを招いて蘭学授業を行わせる。
安政04年(1857年) - 福澤諭吉が適塾の塾長となる。
安政05年(1858年) - 福澤諭吉、岡見彦三の推挙により江戸出府(従者は古川正雄、足立寛、原田磊蔵