慶應義塾大学
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南寮の2階に長官執務室と寝室が、中寮の1階食堂が作戦室に充てられたという[42]

連合艦隊司令部移転に先立つ1944年8月より寄宿舎近辺より蝮谷 (まむしだに)に向けて連合艦隊司令部地下壕の建設が開始された。10月には海軍省人事局が記念館の東側に海軍人事局地下壕を建設し、完成を待つこと無く12月に海軍省経理局とともに日吉に移転、翌年2月に壕内に移転した。また線路を挟んで反対側、普通部校舎の南側、現在の日吉の丘公園のある高台にも1945年1月から艦政本部が地下壕を建設している。1945年7月、それまで第一校舎で業務していた軍令部第三部が蝮谷東側の地下壕に移転、空襲で焼け出された東京通信隊、航空本部も同居した[43]
学風および特色

カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾であり、これは福澤諭吉の発案である[9][10]。また、古来日本の風習にはなかった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた[44]
沿革「慶應義塾」も参照
前史福澤諭吉(1862年)慶應義塾発祥の地記念碑
東京都中央区明石町小幡篤次郎(左)と松山棟庵(右)島原藩藩邸中屋敷黒門。
明治4年(1871年)3月慶應義塾を新錢座から三田に移した。学問のすゝめ』 初版
(1872年)

寛政09年(1797年) - 豊前国中津藩第5代藩主奥平昌高藩校進脩館を設置。

天保09年(1838年) - 緒方洪庵大坂船場適塾を開く[45]

天保10年(1839年) - 佐久間象山神田お玉ヶ池に象山書院(五月塾)を開く。

嘉永06年(1853年) - 黒船来航

嘉永07年(1854年) - 福澤諭吉蘭学修行を志し、長崎に赴く。

安政02年(1855年) - 福澤諭吉が適塾に入る。佐久間象山門弟である中津藩江戸留守居役岡見彦三[46]築地鉄砲洲の藩邸内に杉亨二、松木弘安(寺島宗則)らを招いて蘭学授業を行わせる。

安政04年(1857年) - 福澤諭吉が適塾の塾長となる。

安政05年(1858年) - 福澤諭吉、岡見彦三の推挙により江戸出府(従者は古川正雄足立寛、原田磊蔵)。岡見彦三が福澤を講師として藩邸内の長屋の一軒を借りて蘭学塾を開く(慶應義塾の起源)。

安政06年(1859年) - 福澤諭吉、横浜見物を機に英学転向を決意する。

安政7年/万延元年(1860年) - 福澤諭吉、遣米使節団に随行(第1回洋行)。

万延2年/文久元年(1861年) - 鉄砲洲から芝新銭座に移転。

文久02年(1862年) - 福澤諭吉、遣欧使節団に随行(第2回洋行)。

文久03年(1863年) - 再び鉄砲洲に移転。蘭学塾から英学塾に改め、旧幕臣吉田賢輔等を教授に迎える。

元治元年(1864年) - 福澤諭吉、幕府外国奉行翻訳方となる。

慶応02年(1866年) - 紀州藩より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に紀州塾を建築。

慶応03年(1867年) - 福澤諭吉、幕府の軍艦受取委員の随員として渡米(第3回洋行)。

慶應義塾C.カロザース
(最初の外国人教師)三田演説館内部。演壇の背後の壁はU字型で、音響効果を意識した構造となっている。明治会堂福澤諭吉と塾生達(1887年)ヴィッカース・ホール(1887年頃に建てられた外国人教員用住居)

慶応4年/明治元年(1868年)

4月 - 木村摂津守の世話により芝新銭座に移転[注釈 8][注釈 9]慶應義塾と命名[注釈 10]。『慶應義塾之記』を発表[47]

5月 - 上野戦争の最中もウェーランド経済書の講義を継続。

塾内に病室を設置(校医の起源)。シーソーブランコなどを設置(最初の体育設備)[48]


明治2年(1869年)

8月 - 汐留の中津藩上屋敷内に汐留出張所を設置。

9月 - 『慶應義塾新議』出版。授業料の徴収を規定。

秋 - 童子寮(幼年生のための寄宿舎)を設ける。


明治3年(1870年)

4月 - 汐留出張所を麻布龍源寺に移転。

5月 - 芝山内広度院に分塾を設置。

9月 - 隣接地江川太郎左衛門屋敷の長屋を借り受けて外塾を設置。

10月 - 三田島原藩邸借入につき大納言岩倉具視を訪問して尽力を依頼。

11月 - 弘前藩の招聘で英学教師2名派遣契約。


明治4年(1871年)

3月 - 芝新銭座の校地を近藤真琴攻玉塾へ譲り、三田島原藩中屋敷跡地へ移転。

4月 - 『慶應義塾社中之約束』を制定[49]。学業勤惰表(成績表)の印行を開始。

旧島原藩邸の一室「月波楼」を図書室とする[50]


明治5年(1872年)

6月 - 初めて外国人教師を雇い入れる。

8月 - 出版局(のち、出版社)開設。


1873年(明治6年)

1月 - 神山県よりの招請で宇和島、大洲両学校に教師2名派遣契約。

3月 - 三田藩志摩三商会が設立される。

4月 - 学課改定、正則科・変則科を新設[注釈 11]

10月 - 医学所開校(1880年閉校)。

11月 - 大阪慶應義塾を設立[51][注釈 12]

児玉淳一郎により英米法の臨時講義が行われる[52]

明治六年政変(征韓論政変)後に土佐藩立志学舎へ教員を派遣[53]


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