慶應義塾大学
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授業では自由主義共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため[35]、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた[36][37])。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地海軍兵学寮海軍主計学校に転じた者も多い。

海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、まず1943年12月の学徒出陣が挙げられる。文系学生の徴兵猶予が無くなり、在学中でも20歳に達すると徴兵されたことから、校舎のほとんどが空き教室となっていた。小泉信三の長男小泉信吉の同級生が軍令部第三部第五課に在籍しており、本土空襲に備えて移転先を探していた軍令部の依頼を取り次ぐ形で、日吉校舎の貸与を小泉学長に願い出ている。また文部省からも各大学に余裕のある建物を国に貸与するよう通達もでていたことから小泉学長もこれを承諾した[38]

一方、連合艦隊は1944年4月に軽巡洋艦大淀を連合艦隊旗艦と定め木更津に停泊していたが、6月のマリアナ沖海戦の敗北後、司令部の陸上移転を進めることとなった。候補地には大倉山の精神文化研究所、町田玉川学園横浜海軍航空隊、そして日吉の慶應義塾校舎が挙がったとされている。連合艦隊司令長官豊田副武大将に通信参謀附士官が意見を求められた際に、自分が寮生として過ごした日吉の寄宿舎を推薦したところ、早速上陸して参謀長草鹿龍之介中将とともに視察した。また連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐も、親戚に塾員がいて運動会の見物で現地を知っていたことから日吉移転を強く勧めた[39]

ここで言う慶應義塾の寄宿舎とは、1937年に完成した谷口吉郎東工大助教授の設計によるもので、鉄筋コンクリート3階建て、セントラルヒーティングと各階に水洗トイレを備えた北寮・中寮・南寮の3棟の寮舎と、炊事・浴室・娯楽室を含む別棟からなり、ローマ風呂と称された浴室からは綱島川崎が一望できたという。寄宿舎が鉄筋コンクリート製で堅固なこと、高台で電波状態が良いことから最終的に日吉が選定され、1944年9月21日、連合艦隊司令部は日吉寄宿舎に移転、将旗を掲げた。南寮の2階に長官執務室と寝室が、中寮の1階食堂が作戦室に充てられたという[40]

連合艦隊司令部移転に先立つ1944年8月より寄宿舎近辺より蝮谷 (まむしだに)に向けて連合艦隊司令部地下壕の建設が開始された。10月には海軍省人事局が記念館の東側に海軍人事局地下壕を建設し、完成を待つこと無く12月に海軍省経理局とともに日吉に移転、翌年2月に壕内に移転した。また線路を挟んで反対側、普通部校舎の南側、現在の日吉の丘公園のある高台にも1945年1月から艦政本部が地下壕を建設している。1945年7月、それまで第一校舎で業務していた軍令部第三部が蝮谷東側の地下壕に移転、空襲で焼け出された東京通信隊、航空本部も同居した[41]
学風および特色

カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾であり、これは福澤諭吉の発案である[9][10]。また、古来日本の風習にはなかった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた[42]
沿革「慶應義塾」も参照
前史福澤諭吉(1862年)慶應義塾発祥の地記念碑
東京都中央区明石町小幡篤次郎(左)と松山棟庵(右)島原藩藩邸中屋敷黒門。
明治4年(1871年)3月慶應義塾を新錢座から三田に移した。学問のすゝめ』 初版
(1872年)

寛政09年(1797年) - 豊前国中津藩第5代藩主奥平昌高藩校進脩館を設置。

天保09年(1838年) - 緒方洪庵大坂船場適塾を開く[43]

天保10年(1839年) - 佐久間象山神田お玉ヶ池に象山書院(五月塾)を開く。

嘉永06年(1853年) - 黒船来航

嘉永07年(1854年) - 福澤諭吉蘭学修行を志し、長崎に赴く。

安政02年(1855年) - 福澤諭吉が適塾に入る。佐久間象山門弟である中津藩江戸留守居役岡見彦三[44]築地鉄砲洲の藩邸内に杉亨二、松木弘安(寺島宗則)らを招いて蘭学授業を行わせる。

安政04年(1857年) - 福澤諭吉が適塾の塾長となる。

安政05年(1858年) - 福澤諭吉、岡見彦三の推挙により江戸出府(従者は古川正雄足立寛、原田磊蔵)。岡見彦三が福澤を講師として藩邸内の長屋の一軒を借りて蘭学塾を開く(慶應義塾の起源)。

安政06年(1859年) - 福澤諭吉、横浜見物を機に英学転向を決意する。

安政7年/万延元年(1860年) - 福澤諭吉、遣米使節団に随行(第1回洋行)。

万延2年/文久元年(1861年) - 鉄砲洲から芝新銭座に移転。

文久02年(1862年) - 福澤諭吉、遣欧使節団に随行(第2回洋行)。

文久03年(1863年) - 再び鉄砲洲に移転。蘭学塾から英学塾に改め、旧幕臣吉田賢輔等を教授に迎える。

元治元年(1864年) - 福澤諭吉、幕府外国奉行翻訳方となる。

慶応02年(1866年) - 紀州藩より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に紀州塾を建築。

慶応03年(1867年) - 福澤諭吉、幕府の軍艦受取委員の随員として渡米(第3回洋行)。

慶應義塾C.カロザース
(最初の外国人教師)三田演説館内部。演壇の背後の壁はU字型で、音響効果を意識した構造となっている。明治会堂福澤諭吉と塾生達(1887年)ヴィッカース・ホール(1887年頃に建てられた外国人教員用住居)

慶応4年/明治元年(1868年)

4月 - 木村摂津守の世話により芝新銭座に移転[注釈 8][注釈 9]慶應義塾と命名[注釈 10]。『慶應義塾之記』を発表[45]


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