慶應義塾大学
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旭日旗自体はそのままに、竿頭は塾章であるペンマーク(軍旗では菊花紋章)に、房を浅葱色常備歩兵連隊の軍旗では紫色)に変え、さらに福澤諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれ(軍旗では連隊の隊号を記入)、翌1899年3月15日に福澤別邸において隊旗授与式が行われている[32]

1937年(昭和12年)には「慶應義塾特設防護団」が組織され、1939年(昭和14年)には中国(当時は中華民国)の上海に研究所、北京に公館を創立。中国のほか南洋への学生研究旅行団が派遣され、1941年(昭和16年)には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。日露戦争では帝国軍人援護会を支援し、第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場、農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。

1941年(昭和16年)には各学部の選択科目として「国防学」を新設し、講師として軍事評論家伊藤正徳(1913年〈大正2年〉理財科卒)が招かれた[33]
塾生皆泳

かつては、全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンの下、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍の軍人の長男小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。

また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高等学校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
日吉台地下壕
地下壕入り口(日吉キャンパス)

戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧海軍)との間には深い関わりがある(当時の塾長は小泉信三)。1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省海軍航空本部海軍艦政本部日吉台地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。太平洋戦争大東亜戦争)における台湾沖航空戦レイテ沖海戦戦艦大和の出撃(坊ノ岬沖海戦)などの命令はこの日吉台地下壕から発せられたものであった[34]

ここまでの経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争支那事変)が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになった。授業では自由主義共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため[35]、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた[36][37])。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地海軍兵学寮海軍主計学校に転じた者も多い。

海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、まず1943年12月の学徒出陣が挙げられる。文系学生の徴兵猶予が無くなり、在学中でも20歳に達すると徴兵されたことから、校舎のほとんどが空き教室となっていた。小泉信三の長男小泉信吉の同級生が軍令部第三部第五課に在籍しており、本土空襲に備えて移転先を探していた軍令部の依頼を取り次ぐ形で、日吉校舎の貸与を小泉学長に願い出ている。また文部省からも各大学に余裕のある建物を国に貸与するよう通達もでていたことから小泉学長もこれを承諾した[38]

一方、連合艦隊は1944年4月に軽巡洋艦大淀を連合艦隊旗艦と定め木更津に停泊していたが、6月のマリアナ沖海戦の敗北後、司令部の陸上移転を進めることとなった。候補地には大倉山の精神文化研究所、町田玉川学園横浜海軍航空隊、そして日吉の慶應義塾校舎が挙がったとされている。連合艦隊司令長官豊田副武大将に通信参謀附士官が意見を求められた際に、自分が寮生として過ごした日吉の寄宿舎を推薦したところ、早速上陸して参謀長草鹿龍之介中将とともに視察した。また連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐も、親戚に塾員がいて運動会の見物で現地を知っていたことから日吉移転を強く勧めた[39]

ここで言う慶應義塾の寄宿舎とは、1937年に完成した谷口吉郎東工大助教授の設計によるもので、鉄筋コンクリート3階建て、セントラルヒーティングと各階に水洗トイレを備えた北寮・中寮・南寮の3棟の寮舎と、炊事・浴室・娯楽室を含む別棟からなり、ローマ風呂と称された浴室からは綱島川崎が一望できたという。寄宿舎が鉄筋コンクリート製で堅固なこと、高台で電波状態が良いことから最終的に日吉が選定され、1944年9月21日、連合艦隊司令部は日吉寄宿舎に移転、将旗を掲げた。南寮の2階に長官執務室と寝室が、中寮の1階食堂が作戦室に充てられたという[40]

連合艦隊司令部移転に先立つ1944年8月より寄宿舎近辺より蝮谷 (まむしだに)に向けて連合艦隊司令部地下壕の建設が開始された。10月には海軍省人事局が記念館の東側に海軍人事局地下壕を建設し、完成を待つこと無く12月に海軍省経理局とともに日吉に移転、翌年2月に壕内に移転した。また線路を挟んで反対側、普通部校舎の南側、現在の日吉の丘公園のある高台にも1945年1月から艦政本部が地下壕を建設している。1945年7月、それまで第一校舎で業務していた軍令部第三部が蝮谷東側の地下壕に移転、空襲で焼け出された東京通信隊、航空本部も同居した[41]
学風および特色

カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾であり、これは福澤諭吉の発案である[9][10]。また、古来日本の風習にはなかった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた[42]
沿革「慶應義塾」も参照
前史福澤諭吉(1862年)慶應義塾発祥の地記念碑
東京都中央区明石町小幡篤次郎(左)と松山棟庵(右)島原藩藩邸中屋敷黒門。
明治4年(1871年)3月慶應義塾を新錢座から三田に移した。学問のすゝめ』 初版
(1872年)

寛政09年(1797年) - 豊前国中津藩第5代藩主奥平昌高藩校進脩館を設置。

天保09年(1838年) - 緒方洪庵大坂船場適塾を開く[43]


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