使用キャンパス名称所在地備考
日吉キャンパス神奈川県横浜市医学部1年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。
信濃町キャンパス東京都新宿区信濃町2年生より6年生までは、ここで臨床医学を修得する。
理工学部詳細は「藤原工業大学 (旧制)」および「慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部」を参照
藤原工業大学
日吉キャンパス内の藤原工業大学開校の地記念碑1936年(昭和11年)、慶應義塾の塾長小泉信三はハーバード大学創立300年祝典に参列するために渡米した。そこで、小泉は各地の諸大学を視察し、急激に発展向上しつつあった工学一般の世界の趨勢を目撃し、慶應義塾も工学部設立が急務であることを実感した。これにより、当時、慶應義塾の理事であった槇智雄が中心となって工学部の設立の為の研究調査を開始することになった。一方、王子製紙の社長であり塾員でもあった藤原銀次郎は、各国の製紙工業などをつぶさに視察し、その長短を比較研究して、日本の製紙工業はもとより、日本の工業界全体の発展の為に自分は何をするべきか思いを巡らせていたが、たまたま1935年(昭和10年)、アラスカに出張した帰途、スタンフォード大学を見学し、この大学の歴史、教育、研究、大学の使命・社会貢献などに深い感銘を受けた。さらに日本国内の各大学の工学部も視察してその大学の特色を詳しく研究した。やがて、藤原は自分の思い描く理想的な工業大学を日本に設立して、それがあたかもスタンフォード大学のスタンフォードたらんとすることを密かに考えた。また、藤原はかねてより評議員として慶應義塾の教育にも深い関心を持っていた。こうして慶應義塾の意図するところと藤原の意図するところが一致した。小泉信三と藤原銀次郎との間では工業大学の設置構想について折衝が始まり、財団法人藤原工業大学の創立、その大学の教育・研究は慶應義塾が担当し、校舎は日吉の慶應義塾構内に建設することが決まった。そして、ついに、1939年(昭和14年)5月26日、国から設置の認可が下りて、同年6月17日、藤原銀次郎が理事長、小泉信三が学長、槇智雄が理事、となって「藤原工業大学」が開校した。当初は機械工学科・電気工学科・応用化学科の3学科だけの私立単科工業大学であったが、創立後、大学の一応の目的を達成した時、または藤原銀次郎が亡くなった時はこの藤原工業大学の全部が慶應義塾に寄付されることとなった。
理工学部(旧工学部)
1944年(昭和19年)に藤原工業大学は慶應義塾に寄付され「慶應義塾大学工学部」となったが、その時の日本は太平洋戦争の最中であった。1945年(昭和20年)4月、慶応の日吉キャンパスの上空には米軍の爆撃機が襲来し、工学部校舎は米軍の空襲によって多くを焼失した。終戦後、慶応の焼け残った日吉校舎、寄宿舎は米軍に接収されてしまい、大学の授業再開は不可能な状態であった。この教育的困難に直面した慶應義塾大学工学部は新たな校舎を確保してスタートしなければならなかった。1945年(昭和20年)10月、慶應義塾大学工学部は目黒の旧海軍技術研究所を仮校舎として使用し(目黒仮校舎)、翌年6月には川崎市の日本光学工業の工場を仮校舎として使用した(溝ノ口仮校舎)。1948(昭和23年)3月、慶應義塾は東京都北多摩郡小金井町にある横河電機製作所の工場の土地を取得し、翌年の1949年(昭和24年)ここを慶應義塾大学工学部の「小金井キャンパス」とした。そこは、製作所の工場をそのまま大学の校舎、研究室に転用しただけの粗末なキャンパスであったが、慶應工学部の教員、学生たちは各自手作りした工作機械、実験器具、椅子、備品、薬品、資料などを用意して日々の教育・研究活動に励んだ。その後、1957年(昭和32年)には計測工学科、1959年(昭和34年)には管理工学科が設置され、慶應義塾大学工学部は5学科体制となった。それと並行して、小金井キャンパスは北海道炭礦汽船から寄付された土地2千坪と合わせて、さらなるキャンパスの整備、拡大を目指した。しかし、一般教養課程(日吉校舎)と専門課程(小金井校舎)は地理的な距離が大きく、4年間の一体教育・研究を効果的に行うには困難であった。また、小金井の校舎は工場の建物を改修しただけのものであり、研究設備のさらなる改善も期待できなかった。高度経済成長の日本において、新しい技術革新は次々に誕生していく。それを意識して慶應義塾大学工学部の中からは東京の小金井から神奈川の日吉台へ復帰を求める声がますます増えていった。そして、ついに、1972年(昭和47年)、慶應義塾大学工学部はキャンパスを念願の日吉・矢上台へ全面移転した。役割を終えた小金井キャンパスは1992年(平成2年)までに全ての土地と施設が売却され、その資金は湘南藤沢キャンパスの建設費用に充てられた。1981年(昭和56年)、慶應義塾大学工学部は「慶應義塾大学理工学部」に改組し、数理科学科、物理学科、化学科を設置した。1996年(平成8年)には、電子工学科、物理情報工学科、システムデザイン工学科、情報工学科を、2002年(平成14年)には、生命情報学科を設置した。2020年(令和2年)現在、慶應理工学部は11学科体制である。慶應義塾大学理工学部のカリキュラムは、以前はI系(機械工学科、電気工学科、計測工学科、物理科)、II系(管理工学科、数理科学科)、III系(応用化学科、化学科)という「系別の入学制度」で、1年時の成績で各系の学科に振り分けられていた。しかしI系では科により定員のアンバランスがあり、特定の科に成績の悪い学生が集まる傾向があった。その弊害を無くすため、現在は「学門制度」を取り入れている。学門とは「学びの庭への入り口」という意味であり、開始当初は学門1:物理、学門2:数学、学門3:化学、学門4:機械、学門5:情報の5つの学門が用意された。2020年(令和2年)からは、学門制度がさらにリニューアルし、それぞれの学門が、学門A:物理・電気・機械分野、学門B:電気・情報分野、学門C:情報・数学・データサイエンス分野、学門D:機械・システム分野、学門E:化学・生命分野の5つの学門に変わった。学生は1年次にこれらの学門の中からいずれか1つの学門に所属する。そして、2年次に自分の希望する学科に進むことになる。この学門制度では、それぞれの学門で第2学年時に進級できる学科がそれぞれ異なり、授業の必修科目も学門によって多少の違いがある。1年次の学門で自分の進路を考え、2年次にそれぞれの特色に関係した学科に進級することは、学生の学科選択に余裕を与え、その後の学生の学習目標、研究対象を広くするメリットがある。