慶應義塾大学
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慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]

1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、さらに1866年慶応2年)、親藩である紀州藩紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[5][6][注釈 4]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩藩政改革に携わる。1867年(慶応3年)12月、木村摂津守の世話により新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家久留米藩控屋敷跡を購入し、翌年の1868年(慶応4年/明治元年)4月に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[7][注釈 5]。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ[7]、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。

1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[9][10]廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった[11]1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[12]。同年10月には分校「大阪慶應義塾[13]と「京都慶應義塾」(京都集書院[14]を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。

1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正徴兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科支那語科簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂高島学校)や高山歯科医学院耕余義塾亮天社三田英学校等がある。西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から多くの塾生が郷里に帰郷した為、慶應義塾は経営難に陥り、福澤も一時は廃塾を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は理事委員中心の組織経営へと移行した。さらに1889(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く評議員会の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。

1890年(明治23年)に大学部(文学理財法律の三科)を開設し[注釈 6]、従来の正科・別科を普通部とした。1898年(明治31年)に幼稚舎・普通学科・大学科の一貫教育体制が確立。同時に大学科に政治科を開設した。1904年(明治37年)に大学部が専門学校令による専門学校となり、1907年(明治40年)に学校組織が財団法人として認可された。大学部文学科は1901年(明治34年)に一度廃止されたが3年後に復活し、永井荷風を主幹として1910年(明治43年)に創刊された文芸雑誌三田文学』は日本の文学史上に大きな足跡を残した。

卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[15]。1912年(明治45年)に煉瓦造の創立五十年紀念図書館が開館。そのゴシック式の建築美は慶應義塾のシンボルとなった。慶應義塾に理科系教育部門を開設したいという希望は福澤の存命中からあり、明治末から大正初期に工学科開設案が出たこともあったが[16]、最終的に医学科を開設することに決定し、1917年大正6年)に北里柴三郎を学長[17]に迎えて医学科予科の授業を開始。翌年看護婦養成所(看護医療学部の起源)を附設した。

1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 7]文学部経済学部法学部医学部の4学部からなる総合大学となり、予科大学院を附設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[18]、同年11月には四谷区西信濃町慶應義塾大学病院も開院した。従来からの専門学校令による課程は高等部(当初は専門部)に改組され、1945年(昭和20年)に廃止されるまでに4,419名の卒業生を送り出した[19]


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