慶應義塾大学
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 福澤は明治六大教育家に数えられ、福澤が開校した慶應義塾は同じく六大教育家に数えられる中村正直同人社近藤真琴攻玉塾とともに三大義塾と称された(関口直佑「明治初期における東京の私塾」『早稲田大学社会科学研究科社学研論集』12号(197ページ)。
^ 紀州藩は親藩だったために、幕末には長州征伐に出陣したりするのだが、地理的環境から京都大阪を通じて反幕勢力の状態も知り、彼らに倣って早くから英学を採り入れたのである。鎌田栄吉の自伝によると廃藩前に紀州藩で福沢諭吉を破格の待遇で招こうとしたのだが、既に慶應義塾を開いていたので不可能だった。そして紀州出身で福沢門下の松山棟庵が和歌山に帰って藩立の共立学舎という英学校を作った。その助教がやはり慶應出身の吉川泰次郎(後の郵便汽船三菱会社社長)だった。明治五年になって藩学は県学となって吉田政之丞が慶應から帰って来て、数人の助手を抱えて英学を教えた。鎌田栄吉はここで理学初歩、地理初歩に初まって、フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの文明史、テーラーの英国史、ウエーランドの経済書などを全て慶應流で教えられたとのことである。前記のように旧藩時代から小泉信吉横浜正金銀行の創立者)らが福沢門下となっていたが、『福翁自伝』にも塾には紀州の学生が多いと書いている。当時の慶應義塾では福沢の属した中津藩のほか、越後長岡藩や紀州藩の出身者が学生の主流だったということである。また、岸幹太郎徳川家家令)、草郷清四郎(紀州藩騎兵指揮官)、三宅米吉歴史学者)、巽孝之丞ら初期の藩士だった。上田正一『上田貞次郎伝』(一橋大学学園史関係図書, 1980年, 泰文館)
^ 慶應義塾大学の名は旧字体の「慶應」の他、新字体の「慶応」や、「广」の部分以外をKとOに置き換えた「广+K」「广+O」からなる造字で表記することもある。なお「广+K」「广+O」の造字は、遅くとも1936年(昭和11年)には既に慶應義塾大学の学生の間で使われていた[8]
^ 大学部設置までの文部省による学校区分は「各種学校」(『文部省年報』)となっている。
^ 大正8年8月8日申請、大正9年2月5日、認可第一号『創立百二十五年 慶應義塾年表 第56頁』。修業年限は予科3年、学部3年(医学部は4年)とし、大学院は年限を定めず。
^ 現在の港区浜松町1丁目(歴史:[慶應義塾])。
^ 慶応3年6月に鉄砲洲一帯が外国人居留地に指定され、中津藩中屋敷も立ち退かねばならなくなったため(『慶應義塾百年史』上巻 236頁)。
^ それまでは藩中では「蘭学所」、世間では「福澤塾」と呼んでいた(『慶應義塾百年史』上巻 17頁)。
^ 正則科は修業年限7年(本科4年、予備等3年)、変則科は満17歳以上を入学の条件とし、修業年限には定めなし。
^ 福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた「適塾」(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大坂とのゆかりが深い。
^ 鹿児島出身の塾生の中には西郷軍に加わり戦死した者もいたという(『慶應義塾百年史』上巻 726頁)。
^ 翌年専修学校の開校に伴い廃止され、一部の学生は専修学校法律科2年に編入された(学校法人専修大学『専修大学百年史』下巻 1696頁)。
^ その他、主な関連校に藍謝堂高島学校)、高山歯科医学院耕余義塾亮天社三田英学校等がある。
^ それに対して義塾存続を望む門人らは小幡篤次郎邸で議論を重ね、自分たちで寄付金を募る計画をまとめたため、福澤もこれに同意して成り行きを見守る方針をとった。福澤諭吉事典編集委員会編『福澤諭吉事典』慶應義塾大学出版会、2010年)148頁。
^ 三田英学校、錦城学校を経て現・錦城学園(慶應義塾150年史資料集編集委員会『慶應義塾150年史資料集 2 基礎資料編』(2016年)25頁。
^ のちに大学部講堂、教室や塾監局として使用されたが、関東大震災とその後の余震で大破し、解体された(塾監局が見つめる歴史) 2020年10月14日閲覧。
^ 慶應義塾から派遣された最初の留学生ではあるが、義塾の教員養成を意図したものではなかった。出典:『慶應義塾百年史』中巻(前)314-316頁。
^ 普通科、高等科、大学部の在学生は満28歳まで徴集を猶予され、また右三科中いずれかを卒業した者は無試験にて一年志願の特典を得る(文部省告示第十八号)。
^ 従来の正科(本科3年4ヵ月、予科2年8ヵ月)を廃し、高等科(3年)、普通科(5年)として高等科を初級導門過程、普通科を中学課程に該当せしめ、普通科から高等科に進むものは修業年限を合計7ヶ年とし、別科はそのまま置く。
^ 大学部は定員割れの状況が続いていたため、中上川彦次郎などは大学部を廃止して高等科を拡充すべきだと訴えていた。『慶應義塾百年史』中巻(前)189-199頁)。
^ 広尾の福澤別邸に総理大臣伊藤博文を交え参加者約300名。『慶應義塾百年史』付録(301頁)。
^ 星文庫、大正2年12月16日、13回忌に当たり寄贈。
^ 当初は三田の旧普通部教室を主に使用し、理化学などの特殊学科のみ綱町の普通部新教室を使用した。『慶應義塾七十五年史』223頁による。
^ 予科の日吉移転後は高等部校舎、高等部廃止後は第一研究室となったが、1967年に解体された(三田評論 第33回 各キャンパスの福澤先生像)。
^ 常議員会の設置により1946年廃止。
^ 「慶応義塾の敷地を拡張移転せしむべしとの論が起り、関東大震災で被害復旧が一段落を告げる頃から、ようやく郊外に広き土地を買い入れ、主に予科を移転し、候補地を神奈川県に求める」との論起り「かくするうち、東京横浜電鉄から、日吉台の土地七万二千余坪を無償提供すると申出あり」「この間、東京横浜電鉄株式会社の関係者の一人である塾員小林一三は終始好意的に斡旋につとめた」慶應の卒業生であった阪急の創業者・小林一三は母校の日吉への誘致に積極的に関与する[89]
^ 第二期工事は戦争の影響で一部の計画が延期または中止となった(『慶應義塾百年史』中巻(後)328-330頁)。
^ 当初は文学部心理学研究室、法学部法律鑑定部などが置かれ、1943年からは慶應義塾大学亜細亜研究所の施設となったが(1946年廃止)、昭和26年(1951年)から慶應義塾女子高等学校となった(『慶應義塾百年史』中巻(後)522-523頁)。
^ 戦後慶應義塾大学矢上キャンパスとなる。加藤三明、山内慶太、大澤輝嘉 編著『慶應義塾 歴史散歩 キャンパス編』(慶應義塾大学出版会、2017年)148頁による。
^ このとき三田大講堂も焼失した([特集]戦中、戦後の義塾をめぐって(2)) 2020年10月14日閲覧。
^ 最終の在学生は1946年9月まで在籍(『慶應義塾百年史』付録 386頁)
^ 四谷キャンパスの復興にあわせて徐々に規模を縮小し、1956年の解剖学教室の四谷移転をもって武蔵野分校は廃止された(『慶應義塾百年史』中巻(後)1058-1060頁)。
^ 塾高は10月11日から、大学教養課程は翌年4月から日吉キャンパスで授業開始。
^ この壁画は1991年に三田西校舎学生食堂ホールに移設され、現存している。
^ 戦争の影響で1938年以降は留学生の派遣を中断していた(『慶應義塾百年史』下巻 68-69頁)。
^ 塾内では福澤先生の胸像の台座部分に足をかけたり腰掛けたりすると留年するという都市伝説が代々先輩から後輩に語り伝えられている[119]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:588 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef