慶應義塾大学
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慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本私立大学1858年創立、1920年大学設置。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
概説文久2年(1862年)、江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷内にあった蘭学塾「慶應義塾」(画面中央左側築山下の平地)。図中央に有馬家控屋敷(有馬侶四郎)とあるのが慶應義塾に当たり、東には浜御殿がある。江川英龍の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しておりこの江川家屋敷に「分塾」があった。 尾張屋清七版芝愛宕下絵図

慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]

1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、さらに1866年慶応2年)、親藩である紀州藩紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[5][6][注釈 4]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩藩政改革に携わる。1867年(慶応3年)12月、木村摂津守の世話により新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家久留米藩控屋敷跡を購入し、翌年の1868年(慶応4年/明治元年)4月に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[7][注釈 5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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