慶應義塾大学野球部
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1925年、東京帝国大学が当時の五大学連盟に加盟、これを機に慶早戦再開の機運が盛り上がり、内海弘蔵(明大野球部長)と武満国雄(法大監督)が中心に[5]「再開に応じないチームを外して新しいリーグを設立する」として慶早両校に再開を迫った。しかし現役部員は歓迎したものの先輩たちが応じようとしない[注釈 1]桐原眞二主将らがこれを必死に説得、ようやく同年秋から慶早戦が再開された。またこの年、初代監督として三宅大輔が着任した。1926年からは名将・腰本寿が監督を務め、やがて山下実宮武三郎水原茂牧野直隆らの俊英たちが集まり黄金時代を形成した。1928年秋季リーグ戦では10戦全勝で優勝を飾った。この全勝を挟んで20連勝を記録、これは現在でも破られていない六大学連盟の連勝記録である。1929年、宮武と早稲田の新人・小川正太郎との対決は全国的な熱狂を集め「宮武・小川時代」と呼ばれる空前の慶早戦人気を現出した。

その後1930年代に入ると法政と立教の台頭、加えて明治が4連覇を果たし、1935年には腰本が辞任後急逝するなど優勝から遠ざかったが、1939年秋季リーグ戦で7年ぶりに優勝を達成した。しかし折からの軍部・文部省による野球弾圧は激しさを極め、1942年秋季リーグ戦を最後に東京六大学連盟も翌1943年4月に解散を余儀なくされる。同年10月には法文系学生の徴兵猶予も解除され、いよいよ野球部の存続も危うくなった。ここで当時の主将・阪井盛一が代表となって出陣学徒の餞として慶早戦の開催を塾長・小泉信三に直訴。小泉もこれを快諾し、早稲田側が大学当局の理不尽な妨害に苦しんだものの[6]10月16日に最後の慶早戦が実現した。これを最後に部員の大半が戦地へ駆り出され、1944年5月を最後に活動を休止した。結局太平洋戦争終戦までの間に桐原らOBを含む20名が戦争の犠牲となった。
戦後

1945年10月28日の六大学OB紅白戦、そして11月18日の全慶早戦で戦後の野球がスタート、1946年からは東京六大学リーグ戦も復活した。大島信雄別当薫加藤進らが戦地から還ってきた慶應は復活第一回目のリーグ戦を5戦全勝で制覇、1947年には春秋連続優勝を成し遂げた。以後、早稲田と交互に優勝を分け合い、平古場昭二河合貞雄藤田元司佐々木信也衆樹資宏らのスター選手を擁し再び黄金時代を到来させた。

1950年代後半には長嶋茂雄らが活躍する立教に後塵を拝したこともあったが、前田祐吉が監督に就任した1960年秋に伝説の慶早六連戦を闘い優勝は逸したが、この頃から再び上昇軌道に乗り、六大学初の完全試合を達成した渡辺泰輔らの活躍で1964年までの間に3たびリーグ戦を制した。だが当時の通算本塁打タイ記録(8本)を樹立した広野功江藤省三らの主力が卒業した1966年春季リーグ戦では、チーム力が一気に低下し史上初の最下位という屈辱を味わった。しかし若い近藤良輔監督を中心に猛練習でチーム力を上げると翌1967年春季リーグ戦ではエース藤原真の大活躍で涙のリーグ優勝を果たした。その後1971年秋季からはエース萩野友康松下勝実山下大輔らの強力打線でチーム最多連覇となる3連覇を果たした。

ところがこの3連覇の偉業を最後に、長く暗い低迷のトンネルに入り込んでしまった。後藤寿彦堀場秀孝青島健太らの好打者が神宮を沸かせたものの法政・明治・早稲田の牙城を崩すまでには至らず、1977年春季・1981年春季にはまたも最下位転落の悲哀を味わった。このどん底からの再生を託されたのが前田であった。1982年に前田が二度目の監督に就任するとチーム力は徐々に上向き、1985年秋季リーグ戦では1年生エース志村亮の大活躍に相場勤・仲澤伸一らの強力打線が火を噴き、実に13年ぶりのリーグ優勝を10勝無敗1分で飾り、ようやく57年ぶりに2本目の白線をストッキングに入れることに成功した(エピソードの項参照)。

この快挙で完全に息を吹き返した慶應は、前田の指導のもと選手たちがのびのびとプレーし、数々の偉業を打ち立ててきた。1987年には、24年ぶりに全日本大学野球選手権大会を制した。この年の主将・猿田和三、エース・鈴木哲は共に2年浪人して慶大に入学。「2浪組」が活躍する慶応らしい日本一だった。通算31勝を挙げた志村、リーグ屈指の右腕・鈴木哲、三冠王大森剛らが神宮のみならず大学球界を代表する名選手として大暴れした。


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