慕容渉帰
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そのため、本来庶子である慕容吐谷渾にはその部衆を受け継ぐ資格は無かったが、慕容渉帰は彼の事を慮って、生前のうちに1700戸[7]を分け与えてやったという。

太康4年(283年)12月、慕容渉帰はこの世を去った。本来は慕容?が大人位を継ぐはずであったが、弟の慕容耐が簒奪して位を継いだ。
子孫

慕容吐谷渾は後に青海地方に移り住んで吐谷渾の創始者となり、7世紀頃まで青海一帯を支配して大いに栄えた。慕容?は慕容渉帰の部衆を引き継いで遼東・遼西地方においてその勢力を拡大させ、後の前燕発展の基礎を築いた。慕容運の家系は後代まで繁栄し、北朝や隋・唐において多数の高官を輩出している。但し、慕容運の孫の慕容精[8](もしくは曾孫の慕容勝[9])の時代にその姓を慕容から豆盧に変えている。慕容運の孫の慕容永西燕の最後の皇帝である。
『慕容』という姓について

慕容渉帰は次第にその風習を漢化させていく中で、漢人同様に姓を名乗ろうと考えた。そこで自ら「二儀(天・地)の徳を慕い、三光(日・月・星)の容(度量)を継がん」と宣言し、その言葉から『慕容』を姓として採用したのだという[10]。但し、晋書はこれを彼の祖父である莫護跋の発言としている。
脚注^ 史書には渉帰もしくは?洛韓という名しか書かれておらず、出生時から慕容という姓を持っていたかは不明。十六国春秋の記載によるならば、慕容姓を名乗るのは彼が最初だという。
^ 『十六国春秋』には?落韓とある
^ 『資治通鑑』巻106による
^ 『資治通鑑』による。『晋書』・『十六国春秋』・『魏書』では単于とする。
^ a b 『晋書』武帝紀ではこの事件を慕容?の事件として記しているが、『資治通鑑』巻第八十一では慕容渉帰の事件として記している。
^ 『晋書』武帝紀による
^ 『魏書』には700戸とある
^ 『新唐書』巻74下による
^北史豆盧寧伝による
^ 『十六国春秋』巻23より

参考資料

魏書』(列伝第八十三、列伝第八十九)

晋書』(武帝紀、四夷伝、慕容?載記)

資治通鑑』(巻第八十一 晋紀三)

十六国春秋』巻23

関連項目

宇文部

吐谷渾

先代
慕容木延慕容部の大人
第3代:? - 283年次代
慕容耐


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