こうして郷里に別れを告げて西へ向かうと、陰山に移り住むようになった。ある時、部落の者たちへ「我ら兄弟の子孫は共に栄えるであろう。?は子から曾孫・玄孫に至るまで100年余り続き、逆に我の子孫は玄孫の代になってから名を馳せるであろう」と語ったという。
やがて永嘉の乱が起こると、難を避けて西の隴山を越え、枹罕の地に留まった。
建興5年(317年)、齢72で亡くなったという。慕容吐谷渾には子が60人おり、長男の吐延が後を継いだ。その子孫は西零の西の甘松(現在の甘粛省テウォ県)に移り住むようになり[3]、城郭には居住せずに遊牧生活を送ったが、その一方で漢人の制度に倣って長史・司馬・将軍の官職を設置し、また文字を理解していたという。後代には慕容吐谷渾の名を称え、これを国名とした。
慕容?は兄を追慕し、阿干の歌(遼西では兄の事を阿干と呼んだ)を作った。彼の子孫が帝を称すると、国家の歌として用いられるようになったという。
参考資料
『晋書』巻97 列伝第67 四夷
『魏書』巻101 列伝第89 吐谷渾
『十六国春秋』巻30
『宋書』巻96
脚注^ 『魏書』には700戸とある
^ 史那楼馮・史那?馮・乙那?馮・一那?馮とも。『晋書』・『宋書』・『魏書』・『十六国春秋』でその表記は様々である。
^ 『宋書』・『魏書』によると、慕容吐谷渾の時代にすでに移り住んでいる