慈禧太后
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^ 馮其利「那根正先世考査」『北京档案史料』2005年第2期。薛柏成「慈禧家世史料―『徳賀訥世管佐領接襲家譜』再論」『延辺大学学報(社会科学版)』2014年3月第47巻第2期。
^ 王道成「頤和園重建之謎」『歴史档案2007年第3期』p129-130
^ 王道成「頤和園重建之謎」『歴史档案2007年第3期』p130-131
^ 李嵐、『光緒王朝』、中国青年出版社、〈清宮档案証史書系11〉、p133-136
^ (李嵐『光緒王朝』6-1:慈禧杖斃小太監)
^ 「…多くの官僚・士大夫も、康有為の唱える孔子改制の説など経学上の新奇な意見には全く賛成できなかった。このころ、より穏健な改革論として、先にみた馮桂芬『校?盧抗議』や、張之洞『勧学篇』が朝廷の命で印刷・普及されたのは、康有為の学説についていけない人々の存在を暗示している。結局のところ、この戊戌の年の変法運動は、光緒帝を後ろ盾とするだけで、支持基盤があまりなかったというほかない。」吉澤誠一郎(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部准教授)『清朝と近代世界19世紀』219頁、シリーズ中国近代史@、岩波新書、2010年
^ 「…康有為も戊戌奏議の中で、科挙制度の改革に触れて次のように語っている。「中学は体であり、西学は用である。体がなければ立たず、用がなければ行われない。二者はあい需(ま)ち、一を欠くも不可なり。」これは、張之洞が周知の『勧学篇』の設学で述べた「旧学を体となし、新学を用となし偏廃せしめず」と寸分違わぬ表現である。もし『勧学篇』のこの語をもって張之洞を中体西用論者と目するのであれば、同じ理由で康有為も中体西用論者と見なされるべきであろう。二人の中学/西学または旧学/新学に対するスタンスは、形式的に見て驚くほど近接している。…前述したように康有為の中学に対する基本的立場は、経書の精義に西洋「政教」の原型が提示されているというものであった。この点において康の議論は洋務的附会論者と大差はない」村田雄二郎(東京大学総合文化研究科教授)「第十章康有為と「東学」―『日本書目志』をめぐって」、村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』288-289頁2011年8月、研文出版
^ 「当時「保教」に反対した変法派知識人の代表に厳復がいる。その「有如三保」(原載『国聞報』光緒二十四年四月十五―十六日)にいう「今日更有可怪者、是一種自鳴孔教之人、其持孔教也、大抵於[与]耶蘇(イエス)、謨罕(ムハンマド)争衡、以逞一時之意気門戸而已」(王?編『厳復集』北京・・中華書局、一九八六年、第一冊、八二頁)とは、明らかに康有為に向けて放たれた矢であった。また黄遵憲も康の尊孔保教には終始批判的であった(鄭海麟前掲書、四四四頁、また前掲『梁啓超年譜長編』、七六、二七九頁)」村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』302頁。
^ 両者(康有為と張之洞)の決定的な差違は、経書から読み取るべき「精義」をどのように解釈するか、という点にこそあった。いうまでもなく。康有為においてそれは『春秋』に込められた微言大義であり、孔子の託古改制の教えであり、また三世進化の理論であった。周知のように日清戦争前から萌芽を見せていたこの孔子改制説に最も鋭く反発したのは張之洞であった。清末中国において初めて体系的な中体西用論を開示したとされるその『勧学篇』(一八九八年)が、ほかならぬ『孔子改制考』の刊行直後に著されていることはきわめて重要な意味をもつ。…彼(張之洞)が最も懸念していたのは、康党による尊孔保教や保種合群(学会活動)の高まりであった。張之洞の眼に、それらはすでに保国という大前提を逸脱しかねないものとして映っていた。康有為らの保教・保種運動が保国会の結成というかたちをとって突出しようとしていたとき、彼はどうしてもこれに反駁せずにはおれなかったのである。とくに彼が畏れていたのは、保教運動を支える託古改制なる「異端邪説」が士人の間に浸透することであった。実のところ『勧学篇』は『孔子改制考』への理論的反駁の書にほかならなかった。…附会説に戻っていえば、康有為は他の誰よりも西学の中国古典への附会を徹底させたといえるだろう。『日本書目志』按語にも示されるとおり、彼は「中学即西学」といった論理を展開していたのであり、西学はそのまま中学に連続しうるものと理解されていた。ここで興味深いのは、彼の変法論が従来の洋務論を超えて附会説を徹底化させてゆくことで、現実における政治改革の主張が一層ラジカルになっていったという逆説である。これは古今の復古イデオロギーが例外なく抱えるイロニーというべきであろうが、張之洞らの穏健改革派が終始警戒し反発したのも実にこの点にあった。康有為の幾多の新政建議の中で、中央官界に大きな衝撃をもたらしたものが二つある。一つは制度局の開設であり、一つは孔教の国教化であった。周知のように、前者は「祖宗の法は変えるべからず」とする守旧派からの徹底的な抵抗に遭い、新政の挫折をもたらす直接の原因となった。また後者の主張も、実際には変法派内部ですらほとんど支持を得られぬまま、「保教」のスローガンだけが空転を続けることとなる。彼の孔子改制説がそれまで新政に比較的同情的だった帝党派大官(翁同?や孫家?ら)の離反を招く原因となったことはよく知られている。光緒二十四年五月には「厳禁悖書」を上奏した孫家?と歩調を合わせるようにして、湖南巡撫陳宝箴(湖南における変法運動のパトロン的存在であった)までもが『孔子改制考』の焼却を願い出ている。康有為の孔子改制説がいかに矯激な政治的主張として受けとめられたか想像に難くない。限度つきとはいえ、光緒帝の新政に一定の承認を与えていた西太后が、結局クーデターによって百日維新を葬り去ったのは、孔教国教化の主張と結びついた制度改革の「危険性」を敏感に察知していたからにちがいない。村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』289-291頁。
^ a b 戴逸「戊戌変法中袁世凱告密真相」『江淮文史』2010年6期
^ Timothy Richard ,Forty-five years in China, Chapter 12
^ 楊崇伊「掌廣西道監察御史楊崇伊摺」,『戊戌変法?案史料』,北京中華書局,1959,p.461.
^ 楊深秀「山東道監察御史楊深秀摺」,『戊戌変法?案史料』,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。」
^ 宋伯魯「掌山東道監察御史宋伯魯摺」,『戊戌変法?案史料』,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政?則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。…今擬請皇上速簡通達外務、名震地球之重臣,如大學士李鴻章者,往見該教士李提摩太及日相伊藤博文,與之商酌?法。」
^ 島崎(2010)pp.294-295
^ 誰害死了光緒?慈禧、袁世凱、李連英都有嫌疑
^ 仁珪・章景懐作、『啓功口述歴史』、北京師範大学出版社、第1章-我的幾位祖上和外祖上(1)
^ 徐徹、『慈禧大伝』、遼海出版社、p430
^ 愛新覚羅溥儀著、小野忍、野原四朗監修、新島淳良丸山昇訳『わが半生』上巻、大安出版、1965年、20頁。
^ a b c d e “同治1年8月中18日段77221”. 穆宗毅皇帝實?. 37. "○追封慈禧皇太后曾祖父・原任?部員外郎・吉朗阿、祖父・原任刑部郎中・景瑞、父・原任安徽徽ィ池太廣道・惠?、爲三等公。曾祖母宗室氏、祖母瓜爾佳氏、爲公妻、一品夫人。祭一次。修墳建碑如例。" 
^ “コ宗本紀1”. 清史稿. 23. "本生父醇賢親王奕?,宣宗第七子。本生母葉赫那拉氏,孝欽皇后女弟。" 

参考文献

徳齢、太田七郎
・田中克己訳『西太后に侍して 紫禁城の二年』(1942)研文社、1997

慈禧光緒医方選議 西太后と光緒皇帝の処方集 陳可冀ほか編著 宮川マリ訳. 東京美術, 1983.11.

西太后秘話 その恋と権勢の生涯 徳齢 さねとうけいしゅう訳. 東方書店, 1983.12.

濱久雄『西太后』教育者歴史新書、1984

素顔の西太后 徳齢 井出潤一郎訳. 東方書店, 1987.9.

ジョン・ブランド、エドマンド・トリローニー・バックハウス共著、藤岡喜久男訳『西太后治下の中国―中国マキアベリズムの極致』光風社出版、1991

スターリング・シーグレーブ『ドラゴン・レディ 西太后の生涯と伝説』上・下、サイマル出版会、1994

徳齢、井関唯史訳『西太后汽車に乗る』東方書店、1997

加藤徹『西太后 大清帝国最後の光芒』中公新書、2005

島崎晋『名言でたどる世界の歴史』PHP研究所、2010年6月。ISBN 978-4-569-77939-3

雷家聖『力挽狂瀾 戊戌政変新探』 萬卷樓(台湾)、2004、ISBN 957-739-507-4

雷家聖『失落的真相 晩清戊戌政変史事新探』五南(台湾)、2016、ISBN 978-957-11-8811-9

西太后とフランス帰りの通訳 渡辺みどり 2008.10. 朝日文庫

西太后の不老術 宮原桂 2009.3. 新潮選書

西太后最後の十三日 宮原桂 牧野出版, 2010.12.

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、西太后に関連するカテゴリがあります。

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肉末焼餅 - 大好物だったと言われる料理。

外部リンク

西太后写真集
- MIT Visualizing Cultures

『西太后』 - コトバンク










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