慈禧太后
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^ また頤和園への流用によって海軍衙門の経費が不足したため、260万両の借銀(海軍巨款)を各地から徴収し李鴻章の直隷からも20万両が供出されており、この分からも一部が頤和園建設へ回されている[6]
^ 日清戦争に注ぎ込まれた費用250万両に対して、西太后の60歳の慶典には各衙門合わせて541万6000両が費やされ、頤和園の拡張には約500?1000万両が費やされたと推定されている[7]
^ 梁啓超は『瓜分危言』の中で、海軍費用と称して3000万両が借款されたが、その中の多くが頤和園の建設などに流用されたと語った。
^ 戴逸(中国人民大学清史研究所所長)によると、袁世凱は西太后がクーデターにより訓政再開を画策している事を知ると、変法派のクーデター計画が露見していると思い、保身のため栄禄に変法派のクーデター計画の詳細を密告した。それにより多くの変法派の逮捕と処刑を招き(当初逮捕令が出ていたのは康有為と弟の康広仁のみだったが、袁の密告後に譚嗣同などいわゆる戊戌六君子が逮捕されることになる)、結果的に袁世凱は変法派を裏切っている。袁世凱は変法派を密告した功績により栄禄の信任を得て、栄禄の入京後に署理直隷総督に任じられ、新建陸軍の費用として4000両を与えられるなど、栄禄に重用された[13]
^ また、栄禄がその時点で西太后のクーデター決行と訓政開始の腹積もりを知っていた事と袁世凱が変法派のクーデター計画を密告する様子は、陳?龍『夢蕉亭雑記』(巻二)にも記されている。「八月初三、袁深知朝局将変、惘惘回津。文忠(栄禄)佯作不知、?其来謁、但言他事、絶不詢及朝政。袁請屏退左右、跪而言曰…袁知事不諧、乃大哭失声、長跪不起。文忠曰:“君休矣,明日再談。”因?夜乗火車入京,晤慶邸,請見慈聖,均各愕然。越日,奉朱論以朕躬多病,恭請太后訓政,時局為之一変。首詔文忠入輔。慈聖以袁君存心?測,欲置之重典。」。
^ 近年発見された譚嗣同の友人畢永年が残した『詭謀直紀』には、変法派が栄禄を殺害し、西太后のいる頤和園を軍隊で包囲する計画が書かれており、変法派によるクーデター計画があったことは間違いない[13]
^ 大阿哥とは、この場合皇嗣子を指す。
^ そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、彼を重用するのは、祖先から継承した天下を拱手の礼して人に譲るようなものだ」と西太后に進言した[15]が、歴史学者の李嵐は、西太后が楊崇伊の口を借りて言わせたものでしかなく、根拠の無い話とする。
^ 台湾の学者・雷家聖の学術的な研究成果は、「戊戌変法時期的借才、合邦之議:戊戌政変原因新探」(『歴史月刊』181期,台北:歴史月刊社,2003)、『力挽狂瀾:戊戌政変新探』(台北:萬巻楼,2004)、『失落的真相:晩清戊戌政変史事新探』(台北:五南,2016)、 ⇒「失落的真相:晩清戊戌変法時期的合邦論與戊戌政変的関係」(『中国史研究』61,大韓民国:中国史学会,2009)などがある
^ 溥儀は、当時宮廷に仕えていた李長安という宦官から「光緒帝は前日まではぴんぴんしていたというが、薬を一服飲んだとたんにいけなくなった」と聞いたという。そして、後にその薬は袁世凱から贈られたものと知ったとしている。また溥儀は、西太后が幼い溥儀を皇位につけたのは、幼い皇帝のもとで自分が引き続き政治を行うつもりだったからであり、「(西太后は光緒帝の死亡時に)自分の病状が再起不能なほど重篤だとは考えていなかった」はずだとして、自分の死期を悟り光緒帝を毒殺したという説を否定しているが[22]

出典^ https://viewpilot.files.wordpress.com/2018/04/imag6218.jpg
^ 栗林, 均. “ ⇒Manchu/満洲語辞典”. ⇒東北アジア研究センター ? モンゴル諸語・満州語の資料検索システム. 東北大学. 2022年11月8日閲覧。 検索条件「全文」「前段一致」; 検索語「孝??皇后」
^http://oldbeijing.org/dispbbs_11_47857_59938_skin1.html
^ 馮其利「那根正先世考査」『北京档案史料』2005年第2期。薛柏成「慈禧家世史料―『徳賀訥世管佐領接襲家譜』再論」『延辺大学学報(社会科学版)』2014年3月第47巻第2期。
^ 王道成「頤和園重建之謎」『歴史档案2007年第3期』p129-130
^ 王道成「頤和園重建之謎」『歴史档案2007年第3期』p130-131
^ 李嵐、『光緒王朝』、中国青年出版社、〈清宮档案証史書系11〉、p133-136
^ (李嵐『光緒王朝』6-1:慈禧杖斃小太監)
^ 「…多くの官僚・士大夫も、康有為の唱える孔子改制の説など経学上の新奇な意見には全く賛成できなかった。このころ、より穏健な改革論として、先にみた馮桂芬『校?盧抗議』や、張之洞『勧学篇』が朝廷の命で印刷・普及されたのは、康有為の学説についていけない人々の存在を暗示している。結局のところ、この戊戌の年の変法運動は、光緒帝を後ろ盾とするだけで、支持基盤があまりなかったというほかない。」吉澤誠一郎(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部准教授)『清朝と近代世界19世紀』219頁、シリーズ中国近代史@、岩波新書、2010年
^ 「…康有為も戊戌奏議の中で、科挙制度の改革に触れて次のように語っている。「中学は体であり、西学は用である。体がなければ立たず、用がなければ行われない。二者はあい需(ま)ち、一を欠くも不可なり。」これは、張之洞が周知の『勧学篇』の設学で述べた「旧学を体となし、新学を用となし偏廃せしめず」と寸分違わぬ表現である。もし『勧学篇』のこの語をもって張之洞を中体西用論者と目するのであれば、同じ理由で康有為も中体西用論者と見なされるべきであろう。二人の中学/西学または旧学/新学に対するスタンスは、形式的に見て驚くほど近接している。…前述したように康有為の中学に対する基本的立場は、経書の精義に西洋「政教」の原型が提示されているというものであった。この点において康の議論は洋務的附会論者と大差はない」村田雄二郎(東京大学総合文化研究科教授)「第十章康有為と「東学」―『日本書目志』をめぐって」、村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』288-289頁2011年8月、研文出版
^ 「当時「保教」に反対した変法派知識人の代表に厳復がいる。その「有如三保」(原載『国聞報』光緒二十四年四月十五―十六日)にいう「今日更有可怪者、是一種自鳴孔教之人、其持孔教也、大抵於[与]耶蘇(イエス)、謨罕(ムハンマド)争衡、以逞一時之意気門戸而已」(王?編『厳復集』北京・・中華書局、一九八六年、第一冊、八二頁)とは、明らかに康有為に向けて放たれた矢であった。また黄遵憲も康の尊孔保教には終始批判的であった(鄭海麟前掲書、四四四頁、また前掲『梁啓超年譜長編』、七六、二七九頁)」村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』302頁。
^ 両者(康有為と張之洞)の決定的な差違は、経書から読み取るべき「精義」をどのように解釈するか、という点にこそあった。いうまでもなく。康有為においてそれは『春秋』に込められた微言大義であり、孔子の託古改制の教えであり、また三世進化の理論であった。周知のように日清戦争前から萌芽を見せていたこの孔子改制説に最も鋭く反発したのは張之洞であった。清末中国において初めて体系的な中体西用論を開示したとされるその『勧学篇』(一八九八年)が、ほかならぬ『孔子改制考』の刊行直後に著されていることはきわめて重要な意味をもつ。…彼(張之洞)が最も懸念していたのは、康党による尊孔保教や保種合群(学会活動)の高まりであった。張之洞の眼に、それらはすでに保国という大前提を逸脱しかねないものとして映っていた。康有為らの保教・保種運動が保国会の結成というかたちをとって突出しようとしていたとき、彼はどうしてもこれに反駁せずにはおれなかったのである。とくに彼が畏れていたのは、保教運動を支える託古改制なる「異端邪説」が士人の間に浸透することであった。実のところ『勧学篇』は『孔子改制考』への理論的反駁の書にほかならなかった。…附会説に戻っていえば、康有為は他の誰よりも西学の中国古典への附会を徹底させたといえるだろう。『日本書目志』按語にも示されるとおり、彼は「中学即西学」といった論理を展開していたのであり、西学はそのまま中学に連続しうるものと理解されていた。ここで興味深いのは、彼の変法論が従来の洋務論を超えて附会説を徹底化させてゆくことで、現実における政治改革の主張が一層ラジカルになっていったという逆説である。これは古今の復古イデオロギーが例外なく抱えるイロニーというべきであろうが、張之洞らの穏健改革派が終始警戒し反発したのも実にこの点にあった。康有為の幾多の新政建議の中で、中央官界に大きな衝撃をもたらしたものが二つある。一つは制度局の開設であり、一つは孔教の国教化であった。周知のように、前者は「祖宗の法は変えるべからず」とする守旧派からの徹底的な抵抗に遭い、新政の挫折をもたらす直接の原因となった。また後者の主張も、実際には変法派内部ですらほとんど支持を得られぬまま、「保教」のスローガンだけが空転を続けることとなる。彼の孔子改制説がそれまで新政に比較的同情的だった帝党派大官(翁同?や孫家?ら)の離反を招く原因となったことはよく知られている。光緒二十四年五月には「厳禁悖書」を上奏した孫家?と歩調を合わせるようにして、湖南巡撫陳宝箴(湖南における変法運動のパトロン的存在であった)までもが『孔子改制考』の焼却を願い出ている。康有為の孔子改制説がいかに矯激な政治的主張として受けとめられたか想像に難くない。限度つきとはいえ、光緒帝の新政に一定の承認を与えていた西太后が、結局クーデターによって百日維新を葬り去ったのは、孔教国教化の主張と結びついた制度改革の「危険性」を敏感に察知していたからにちがいない。村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』289-291頁。
^ a b 戴逸「戊戌変法中袁世凱告密真相」『江淮文史』2010年6期
^ Timothy Richard ,Forty-five years in China, Chapter 12
^ 楊崇伊「掌廣西道監察御史楊崇伊摺」,『戊戌変法?案史料』,北京中華書局,1959,p.461.
^ 楊深秀「山東道監察御史楊深秀摺」,『戊戌変法?案史料』,北京中華書局,1959,p.15.「臣尤伏願我皇上早定大計,固結英、美、日本三國,勿嫌『合邦』之名之不美。」
^ 宋伯魯「掌山東道監察御史宋伯魯摺」,『戊戌変法?案史料』,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政?則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。…今擬請皇上速簡通達外務、名震地球之重臣,如大學士李鴻章者,往見該教士李提摩太及日相伊藤博文,與之商酌?法。」
^ 島崎(2010)pp.294-295
^ 誰害死了光緒?慈禧、袁世凱、李連英都有嫌疑
^ 仁珪・章景懐作、『啓功口述歴史』、北京師範大学出版社、第1章-我的幾位祖上和外祖上(1)
^ 徐徹、『慈禧大伝』、遼海出版社、p430
^ 愛新覚羅溥儀著、小野忍、野原四朗監修、新島淳良丸山昇訳『わが半生』上巻、大安出版、1965年、20頁。
^ a b c d e “同治1年8月中18日段77221”. 穆宗毅皇帝實?. 37. "○追封慈禧皇太后曾祖父・原任?部員外郎・吉朗阿、祖父・原任刑部郎中・景瑞、父・原任安徽徽ィ池太廣道・惠?、爲三等公。
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