感染症の歴史
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エジプトでは、1970年完成のアスワン・ハイ・ダムの貯水開始とともに感染が爆発的に拡大した[16][注釈 2]日本住血吸虫卵

日本には水田耕作とともに弥生時代に持ち込まれたと考えられている[16]。日本住血吸虫症は、日本中国フィリピン等でみられる住血吸虫症の一種で、ミヤイリガイ(オンコメラニア)という巻貝中間宿主として成長した寄生虫日本住血吸虫)が経皮感染によってヒトやウシネコなどに感染することによって発生する感染症である。日本では、古くから甲府盆地底部一帯や筑後川流域が罹病地域として知られてきた[16]。特に山梨県下では「地方病」と称されて地域特有の奇病と見なされてきた。1904年桂田富士郎甲府市でこの寄生虫を発見し、1913年宮入慶之助と鈴木稔が佐賀県鳥栖市において、寄生虫の中間宿主がオンコメラニアであることを発見したため、病名に「日本」の名が付されることとなった。

中国湖南省長沙市前漢代の墳墓である馬王堆遺跡ミイラから日本住血吸虫の生活痕跡を検出したことから、中国において、この感染症の流行はきわめて古くからのものであることが確かめられている[23]

中国では、1950年代初頭、四川盆地をふくむ長江流域や広東省福建省雲南省など広汎な地域で日本住血吸虫症の流行が顕在化し、患者数は約3200万人にのぼったと推定される[24]中華人民共和国では、建国以来、大衆動員によって古いクリークを埋め立て、新しいクリークを開削する方法によってオンコメラニア対策が採られ、1958年には、江西省余江県での成功にちなんで、当時の中国共産党の指導者毛沢東は「送瘟神(瘟神を送る)」と題する漢詩をつくっている[23][注釈 3]

日本住血吸虫症は、こんにちでも中国やフィリピンを中心に年間数千人以上の新規感染患者が発生しているが、日本では1978年に発生した山梨県の罹患者を最後に新規感染者が確認されておらず、1996年には山梨県知事天野建によって「地方病終息宣言」が出された[25]
マラリア「マラリアの歴史」および「戦争マラリア」も参照マラリア原虫を媒介するハマダラカ

単細胞の寄生虫であるマラリア原虫赤血球に寄生して起こる感染症で、40℃前後の発熱や悪寒などの症状をともない[26]、頭痛や吐き気をもよおすこともある。熱系により、三日熱、四日熱、定期性のない熱帯熱に分けられる[26]熱帯亜熱帯地域に多く、日本では「おこり」とも呼ばれた[27][注釈 4]

マラリアの起源は古く、農耕生活の始まりにさかのぼる[15]。ヒトに感染するマラリア原虫には6種あり、うち5種はゴリラチンパンジーなどアフリカ産霊長類に起源を有している[15]。のこり1種は、2004年にボルネオ島で見つかったサルマラリア原虫で、カニクイザルなどアジアに棲息するマカクを自然宿主としている[15]

の中でハマダラカの一部の種だけが病原体を媒介する[26]メスのハマダラカが感染者の血液を吸い、別の人を刺すことによって広がる。通常、カに刺されて10日ないし14日の潜伏期間を経て、発作状の発熱がある[26]。効果的なワクチンはないが、抗マラリア剤で治療できる。従来、長きにわたってキニーネが特効薬とされてきたが、のちにアテブリンやプラスモヒンが開発された[26]第二次世界大戦後はクロロキンの使用が増えている[26]

マラリアは、約1万年前以降、ヒトの生存に大きな影響を与え始めたが、これは新石器革命の開始の時期とほぼ一致している[28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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