感染症の歴史
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の中でハマダラカの一部の種だけが病原体を媒介する[26]メスのハマダラカが感染者の血液を吸い、別の人を刺すことによって広がる。通常、カに刺されて10日ないし14日の潜伏期間を経て、発作状の発熱がある[26]。効果的なワクチンはないが、抗マラリア剤で治療できる。従来、長きにわたってキニーネが特効薬とされてきたが、のちにアテブリンやプラスモヒンが開発された[26]第二次世界大戦後はクロロキンの使用が増えている[26]

マラリアは、約1万年前以降、ヒトの生存に大きな影響を与え始めたが、これは新石器革命の開始の時期とほぼ一致している[28]。4800年前ないし5500年前の古代エジプトでつくられた複数のミイラからはマラリア原虫のDNAが検出され、ツタンカーメン王のミイラからもマラリア原虫の一部が見つかっている[28]。また、マラリア予防の目的かどうかは不明であるが、古代エジプト最後の女王、クレオパトラ7世が蚊帳の下で寝ていたことが確かめられている[28]。なお、「東方遠征」で有名な古代マケドニア王国の王アレクサンドロス3世については、従来はマラリアによる死亡と考えられてきたが、近年、マラリアが死因でないとする学説が登場している(詳細は「ウエストナイル脳炎」節を参照)。

中国最古の医学書『黄帝内経』にはマラリアとみられる疾病の診断法と治療法が記されており、インドでは最初に農耕がはじめられたインダス川流域から高温多湿のガンジス川流域へと耕地を拡大していった過程で流行したとみられる[28]。ヨーロッパでは、地中海地域で流行し、古代ローマでは人口激減の一因にもなった[28]。17世紀から18世紀にかけてはヨーロッパ各地で数回にわたり流行が繰り返された[28]

古代ローマ帝国の軍人ゲルマニクス10世紀神聖ローマ帝国の皇帝オットー2世平安時代末期の平清盛[29]堀河天皇ルネサンス期の文豪ダンテ・アリギエーリ室町時代の僧一休宗純日本陸軍諜報員であった谷豊(ハリマオ)、イタリア出身の自転車選手ファウスト・コッピなどはマラリアによって死去した人物とみられている[注釈 5]平安時代の日記や記録にはマラリアの流行が幾度も記載されており、敦良親王藤原頼通はマラリア感染者であったと考えられる[27][30]。当時の王侯貴族は多くの場合、加持祈祷によって病気平癒を願った[27]蚊帳

アメリカ大陸には、大航海時代以降、旧大陸各地から持ち込まれた[28]。アメリカ合衆国では18世紀から20世紀にかけて、多い年には10万にも感染者があらわれた[28]。とくに首都のワシントンD.C.は元来沼沢地であったためにマラリア蚊が蔓延し、ジョージ・ワシントンエイブラハム・リンカーンユリシーズ・グラントといった大統領職にあった政治家も感染を経験している[28]

ロシア革命後の1923年、マラリアはウラル山脈より西側のヨーロッパ・ロシアの地域で流行し、約300万人が感染したといわれる[28]。また、第二次世界大戦中に沖縄県、とくに八重山諸島で発生した集団罹患は、特に「戦争マラリア」と呼ばれる[29]。ここでは、急ごしらえの簡素な小屋で多数の人びとが共同生活を余儀なくされたことから、およそ1万7000人が感染し、死者は約3000人におよんだ[29]

アフリカにおいては、現在、エイズ、結核と並ぶ3大感染症のひとつであり、視覚や聴覚を失うなどの後遺症で悩む人も少なくない。その感染者は毎年3.5億人から5億人にかけてと推測され、アフリカでは子どもの主要な死因のひとつになっている。2008年3月にマスメディアに流れた情報によると、ケニアウガンダタンザニアにまたがるアフリカ大陸最大の湖ヴィクトリア湖は、年々水位が下がっており、係留していたと思われるボートが陸に上がってしまったり、湖岸であった箇所には幅10メートルないし20メートルの草地が続いていたという。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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