愛知電気鉄道
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出生地が岐阜県稲葉郡下羽栗村であったという地縁から藍川の要請を受諾した岩田は[14]、知多電気鉄道計画は建設費を削減することによって十分採算が取れると判断し[16]、計画を軌道条例による単線の電気軌道に変更するとともに[16]、元関西鉄道社長の田中新七らを新たに発起人に加え[14]、岩田自身が発起人総代となり1909年(明治42年)9月に特許を出願した[14]。同年10月には発起人総会を開催、社名を「知多電車軌道」(資本金100万円)とし[14]、創立委員長には岩田が、創立委員には田中・兼松ら3名がそれぞれ就任した[17]

創業に当たっての事務手続きは進捗したものの、特許申請については当時行政側において私有鉄道の準拠法として軌道条例に代わって軽便鉄道法の施行が計画されていたことによって停滞したため[18]、同法が施行された1910年(明治43年)8月3日付で知多電車軌道の軌道条例による特許出願を軽便鉄道法による免許申請へ変更する旨届け出て[18]、同年9月23日に熱田町新宮坂より常滑町へ至る鉄道路線が免許された[19]。敷設免許が下りたことを受けて、1910年(明治43年)11月21日に会社創立総会が名古屋商工会議所において開催された[5]。総会においては、従来「知多電車軌道」とされた社名について、将来的に事業範囲を知多半島のみならず名古屋市を中心として県南東部にかけて広く展開することを念頭に愛知電気鉄道と変更することを決定[6]、初代社長には岩田が、取締役には兼松・田中ら6名が就任し、藍川は監査役に就任した[5]
常滑線の建設から開通まで常滑線路線図

会社設立を終えたことから、愛知電気鉄道(以下「愛電」と記す)は各種資材の手配を進め、熱田 - 常滑間を4つの工区に分割して建設を開始した[20]。当初電力については自社にて発電所を建設する構想であったが、後に名古屋電灯より電力供給を受ける形に計画を変更した[20]

1911年(明治44年)に、4つの工区のうち第一工区に相当する熱田 - 名和村間について、構想段階における呼続・大高経由の大回り経路から常滑街道沿いの短絡経路へ変更することとし[21]、同年5月に変更願を提出し6月に認可された[21]。この経路変更に伴って新たに用地買収の必要が生じ、第一工区のうち地権者との交渉が難航した熱田 - 伝馬町間については[21]、同様に用地買収が難航した第四工区に相当する大野町 - 常滑間とともに着工を後回しとし[21]、伝馬町 - 大野町間の建設を優先して施工した[21]

伝馬 - 大野町間の建設は順調に進み、1912年(明治45年)2月上旬に監督官庁による審査を通過し[22]、同年2月18日に開通した[23]。暫定的に起点駅となった伝馬は、300 mほどの徒歩連絡によって名古屋電気鉄道市内線(後の名古屋市電)の熱田伝馬町停留場と接続しており、名古屋市内中心部への連絡運輸が行われた[22]。開通後2月28日までの10日間は運賃を半額としたこともあって利用客が殺到し、開業初日のみで乗客2,600人が利用し、運賃収入は210円にのぼった[22]。同年3月3日には県知事・地元実業家・大株主など地元政財界の要人を中心に500名を招待して開業祝賀会を開催し[24]、花火の打ち上げや奉納相撲が行われるなど盛況を博した[24]

伝馬町 - 大野町間開業後の営業成績は好調で[24]、春季には観光目的の団体客の需要などもあり、当初導入された8両の電車のみでは需要をまかない切れなくなったことから[24]、愛電は4両の電車(付随車)を追加導入して従来単行(1両)運転を基本とした列車を一部2両編成とし、増加する輸送需要に対応した[24]

既開業区間の業績好調を受けて、愛電は熱田より名古屋市中心部に近い東陽町(現在の中区東陽町)に至る「東陽町線」をはじめとする4路線の敷設を計画[20]、1912年(明治45年)より順次敷設免許を申請した[25]。次いで、未開業区間の熱田 - 伝馬町間および大野町 - 常滑間の着工準備に取り掛かった[26]。前者の区間については熱田駅にて行う予定であった国鉄との貨物列車の連帯運輸や、前述した東陽町線建設構想の都合から、愛電の熱田駅(神宮前駅)を東海道本線の東側に建設することとした[26]。そのため、路線を神宮前手前で東海道本線を跨線橋にて乗り越す構造とする必要が生じたが[26]、跨線橋の建設には多額の費用を要し、さらに用地買収が難航したため工事日数がかかることが想定されたことや、東陽町線の敷設免許が遅れたことなどから[26]、跨線橋手前の秋葉前まで暫定的に延伸する方針が決定した[26]

1912年(大正元年)8月1日に秋葉前 - 伝馬町(伝馬から改称)が開通し[27]、さらに大野町 - 常滑間については難航した用地買収問題が解決したことに伴って1912年(明治45年)7月に着工、翌1913年(大正2年)3月29日に開通した[28]。常滑への路線延伸に伴って6両の電車を増備したほか、前述した貨物列車の運用開始に備えて貨車を30両新製した[29]

残る神宮前 - 秋葉前間については、1913年(大正2年)2月に東陽町線の敷設免許が下りたことを受けて、同年5月より着工した[29]。この工事費用には50万円の借入金を充当したが[30]築堤の造成や跨線橋の建造・設置に多額の費用を要したことから、わずか0.6 kmの区間に約23万円の工事費用を要し[30]、当時の年間収益が20万円程度であった愛電にとっては社運を賭けた大事業と評されるものであった[30]。1913年(大正2年)8月に線路の敷設および駅施設の建設が完了し[30]、同年8月31日の神宮前 - 秋葉前間の開通をもって、当初の計画路線であった神宮前 - 常滑間29.5 kmが全線開通した[31]。また、同年9月には愛電神宮前と国鉄熱田を結ぶ貨物連絡線が開通し、同年12月より直通連帯運輸が開始された[30]
経済不況による経営危機

愛電は既存路線の延伸と同時に、前述した東陽町線のほか、熱田より有松・知立方面へ至る「有松線」・尾張横須賀より分岐して知多郡半田町へ至る「半田線」・常滑より知多郡内海町へ至る「内海線」の計4路線の敷設免許を申請し[20]、内海線は1912年(大正元年)8月に[32][33]、半田線は同年12月に[32][34]、東陽町線および有松線は翌1913年(大正2年)2月にそれぞれ免許された[29]


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