古代の名古屋市南部すなわち熱田台地付近は半島を成しており、奈良時代以前はこの地域を「年魚市」「吾湯市」などと書いて「あゆち」と呼んでいた。周囲は干潟を成した湾が入り込んでおり[1]、この付近の干潟が「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれていた[1]。年魚市潟は歌枕として知られ、『万葉集』では高市黒人の歌として「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟 潮干にけらし鶴鳴き渡る」と詠まれている。
愛知の古称である「あゆち」の語源については不明で、古くから議論がなされている。江戸期の郷土史家津田正生は『尾張国地名考』の中でアユが捕れる淵の意ではないかと考察している[2]。『愛知郡誌』では「あゆ」とは湧水の意であるとしている[3]。この他に「あゆ」とは東風の意でめでたい風を表すとする説などがある[3]。 愛知郡は、7世紀後半に設置された年魚市評(あゆちのこおり)を前身とするとみられる。『田島氏系図』には「多々見 年魚市評督」の記載が見え、評督には尾張氏が就いていたとみられる[3]。なお、大化の改新以前は「阿由知県(あゆちのあがた)」という県が置かれていたという説もあるが[4]、この説は疑問視されている[注釈 12]。 701年の大宝律令制定により評が郡となり、年魚市郡が成立した。年魚市郡の表記は複数あり、平城京出土木簡には「阿由市郡」と[5]、712年付の『神亀三年山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳』には「鮎市郡」と[6]、『日本書紀』には「年魚市郡」と表記されている[4]。713年以降、好字二字令により表記が「愛智」または「愛知」に改められたと推測され[4]、10世紀以降に編纂された『延喜式』や『和名抄』には「愛智郡」と[7]、平城京出土木簡や『続日本紀』では「愛知郡」と記載されている。なお『倭名類聚抄』では「愛智」は「阿伊知(あいち)」と訓読されており[8]、平安中期の時点で「あいち」という読みは確立されていたらしい。 郡衙の位置については不詳であるが、奈良期の瓦や須恵器が大量に出土する名古屋市中区正木一丁目付近(正木町遺跡)を愛知郡衙が置かれた地とする説がある[4]。中区正木から古渡町の地域は古代から中世に渡津として発展したことが知られており、『延喜式』にみえる東海道の「新溝駅」もこの付近に比定する説が有力視されている[9]。飛鳥時代創建とされる尾張元興寺も正木付近に建立されていたことが判明している[10]。 平安中期に成立した『和名類聚抄』に「愛智郡」の郷として掲載されているのは以下の通り[8]。
古代
郷