郡衙の位置については不詳であるが、奈良期の瓦や須恵器が大量に出土する名古屋市中区正木一丁目付近(正木町遺跡)を愛知郡衙が置かれた地とする説がある[4]。中区正木から古渡町の地域は古代から中世に渡津として発展したことが知られており、『延喜式』にみえる東海道の「新溝駅」もこの付近に比定する説が有力視されている[9]。飛鳥時代創建とされる尾張元興寺も正木付近に建立されていたことが判明している[10]。 平安中期に成立した『和名類聚抄』に「愛智郡」の郷として掲載されているのは以下の通り[8]。 この他に以下のような『和名類聚抄』不記載の郷里が木簡などから確認されている。
郷
中村(なかむら)
現在の名古屋市中村区北部から海部郡大治町八ツ屋にかけての地域に比定される[11]。平城京出土木簡には「尾張国愛知郡中寸」とあり、古くは「中寸」とも表記されていた[12]。当郷は愛知郡西条である[11]。
千竃(ちがま)
現在の名古屋市中村区南部から中川区北部に比定される[13]。旧稲葉地村には「千竃」「千竃浦」という小字があり、これらが遺称地とみられる。なおかつては当郷を塩竃と結び付けて、南区星崎や千竃通に比定する説があったが、鎌倉期の文献から当郷が愛知郡西条であることが判明し、南区に比定する説は否定されている[13]。
日部(くさかべ)
「日下」「草部」とも書かれた。平城京出土木簡に「尾張国愛智郡草部郷日置里」とあり[14]、中区日置神社周辺や大須などの地域に比定される[15]。
太毛(おおやけ)
「大家」「大宅」とも書かれた。鎌倉期の文献から、中区古渡町付近が当郷に含まれることが判明している[15]。熱田区も当郷に含まれるとみる説もある[15]。表記の類似から瑞穂区大喜町に比定する説がかつてあったが、これは過誤とみられる[15]。なお当郷は愛知郡東条に属していたことが知られている[15]。
物部(もののべ)
記載順から当郷は太毛郷の東にあるとみて御器所周辺に比定される[15]。なお東区筒井に「物部神社」があるが、これは江戸期まで「石神堂」と呼ばれていたものを改称したもので、山田郡との郡境の問題などからこれを式内社の物部神社とみるのは懐疑的な見解がある[9]。
厚田(あつた)
「熱田」とも書かれた。熱田神宮周辺に比定するのが通説であるが、瑞穂区付近であるとする説もある[9]。『日本書紀』や『尾張国風土記』逸文に「熱田社」との記載が見える。
作倉(さくら)
南区桜本町付近(江戸期の桜村)を遺称地とみるのが定説である[9]。
成海(なるみ)
緑区鳴海町を遺称地とみるのが定説である[9]。現在の豊明市も当郷に含まれていたとする説がある[9]。
驛家(うまや)
『延喜式』に「新溝駅」という駅家の記載があり、これは愛知郡内に置かれたものとみられ、驛家郷は新溝駅周辺に存在したとみられる[9]。新溝駅の位置については古渡とする説が有力視されている[9]。なお郷土史家の三渡俊一郎は、「新溝」とは中世の文献に見える「古渡河」(後称「九丁堀」)のことではないかと考察している[9]。
神戸(かんべ/ごうど)
熱田神宮領とみて神戸町などの地名が残る熱田神宮周辺とする説と[9]、伊勢神宮領とみて一楊御厨があった中川区内に比定する説がある。なお鎌倉期の愛知郡神戸郷は、熱田区横田や中瀬町を含む熱田神宮周辺を指していたことが知られる[16]。
荒大(あらたい)
平城宮出土木簡に「尾張国愛知郡荒大里」と、正倉院文書に「尾張国愛智郡荒大郷」とある[4]。成海郷に在住したとされる荒田井氏と関連視して、鳴海近傍にあてる説がある[4]。『尾張国内神名帳』に記載のある知多郡「荒太天神」や中世の文献にみられる「知多郡荒尾郷」と関連視して現在の東海市荒尾町に比定する説もある[17]。
油江(あぶらえ)
平城京出土木簡に「尾張国愛知郡油口(江)里」とある[4]。『尾張国内神名帳』に記載のある愛知郡「油江天神」があり、近代まで「油江」という小字名が残っていた名古屋市中村区中村町付近と推定される[4]。油江里は後に中村郷に統合されたと推測されている[4]。
余戸(あまるべ)
平城京出土木簡に「愛知郡余戸里」とある[4][注釈 13]。比定地は未詳だが、辺縁部の可能性がある[4]。
式内社