愛欲
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また、キリスト教の英語旧約聖書で「lovingkindness」「kindness」「kindly」「mercy」「in goodness」と訳される「慈悲」の意味の「???」(ヘセド)[8]は、他に「favor」「Loyalty」「disgrace[9]」などと訳されて「えこひいき」「忠誠心」「恥」の意味にも使われているが、「Loyalty(恥)」と訳された「???」(ヘセド)をヘブライ語聖書レビ記20章17節に見ると「慰み」の意味合いも含まれていることがわかる。神の愛はしばしば歴史記述を通して具体的に語られる。概要としては、愛を受けるに相応しくない者に、神の自由な一方的な選択によって愛が与えられ、その者が、たとい神から離れようとも、神は見捨てない、という内容である[7]

「?????」は[10]、主の「愛」の意味。この綴りは、主が「愛した」という意味の「???」を[11]核とする。

キリスト教では、新共同訳聖書申命記7章8節「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。 」と翻訳されている。


「?????」はまた[12]、女の「愛」も意味する。

キリスト教では、新共同訳聖書サムエル記)下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。


「?????」は[12]、親友の「愛」を意味する。

キリスト教では、新共同訳聖書サムエル記下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。


「????」は[13]、息子に対するアブラハムの「愛」。

キリスト教では、新共同訳聖書創世記22章2節「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 」と翻訳されている。


「?????」は[14]、主を「愛すべし」の意味。

キリスト教では、新共同訳聖書申命記6章5節「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 」と翻訳されている。


「?????」はまた[15]、隣人を主である私のように「愛すべし」という意味の聖句にも使われている。なお、主は、キリスト教申命記10章9節にも記されているとおり、レビ族[16]嗣業を意味する。

キリスト教では、新共同訳聖書レビ記19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 」と翻訳されている。


「?????」は[17][18]、主から慈悲を与えられる「愛人」の意味。主の「?????」(愛人)であることに対する見返りが、主の「???」(慈悲)である。

キリスト教では、新共同訳聖書出エジプト記20章6節並びに申命記5章10節「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 」と翻訳されている。


仏教での愛と慈悲

仏教における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。

「愛」に相当する、概念にはサンスクリット語ではtRSNaa ??????、kaama ???、preman ???????、sneha ????? の4種がある。


tRSNaa (トリシュナー
人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう[19]。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
kaama (カーマ)
kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。密教が空海によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に「彼の法」集団(俗に立川流と混同される)が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
慈悲

preman, sneha
preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。

仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。菩薩が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitr?」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaru??には「悲」の字を用い、それらをあわせて「慈悲」という表現で呼んだ。

特に大乗仏教では、慈悲智慧と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『スッタニパータ』にも慈悲の章がある。あたかも母が己の独り子をば身命を賭けて護るように、一切の生きとしいけるものに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『スッタニパータ[20][21]

一切衆生に対する純化された想い(心)を慈悲という。それは仏だけでなく、普通の人々の心の中にもあるものだと大乗仏教では説く。

観音菩薩(や聖母マリア)は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。
儒教での愛

は、人がふたり居るときの完成した愛であるが、孔子は、その実現困難性について「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」といい、愛に生きるならば生命を捧げる覚悟が必要だとした。仁は対人関係において自由な決断により成立する徳である。孔子は仁の根源を血縁愛であるとした(「孝弟なるものはそれ仁の本をなすか」)。そしてこの自己犠牲としての愛と、血縁愛としての自己保存欲との間に、恭(道に対するうやうやしさ)、寛(他者に対する許しとしての寛大)、信(他者に誠実で偽りを言わぬ信)、敏(仕事に対する愛)、恵(哀れな人に対するほどこし)などが錯綜し、仁が形成されるとした。

一方で孔子は「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と述べた。

孟子は仁と義に対等の価値をみとめ、利と相反するものとしたが、墨子は義即利とみて、孟子と対立した。[22]

仁をただちに愛としないのは愛を情(作用)とみ、仁を性(本体)とみているからである。[22]
理論

愛を巡っては、心理学や生物学分野においてさまざまな理論が提唱されている。

心理学者のロバート・スターンバーグ(英語版)は1986年に愛の三角理論を提唱し、愛は相手に対する敬意や好意、親しみを示す「親密さ」、性的欲求や相手への熱烈な感情を示す「情熱」、そして相手を愛そう、相手との関係を維持しようという決意を表わす「関与」の3つの成分に整理できるとして、各成分の有無によって、3成分全てが存在しない愛のない関係から3成分全てを兼ね備えた完全な愛に至るまで、愛を8種類に分類した[23]

愛と好意の関係については、本質的に同じものと見る立場から、質的に全く異なるものとみなす立場まで、さまざまな説が存在する[24]
対象
自己愛詳細は「ナルシシズム」を参照ナルシシズムの語源となった、ナルキッソスカラヴァッジオ画)

社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。


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