愛新覚羅慧生
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望するが、親類の反対に遭い[注釈 1]1956年(昭和31年)学習院大学文学部国文科に入学した。同じ学科の男子学生・Oと交際を始めたが、母などの家族には交際を打ち明けられる環境ではなかった[注釈 2][5]

1957年(昭和32年)12月4日の夜、天城山でOの所持していたピストルでOと心中死したと推察されている。2人の遺体は12月10日に発見された(天城山心中)。なお、嵯峨家側はあくまでOによる無理心中だったと主張している[6]

慧生の遺骨は、1961年(昭和36年)に中国に帰国する母の浩によって北京に運ばれた。当初は醇親王家の墓地に入れられる予定であったが、文化大革命の動乱を経験した父母が平和な地に納骨されることを望んだため、1978年(昭和53年)に訪中した妹の?生らが帰国する際に半分の遺骨が日本に運ばれ、嵯峨家の菩提寺である二尊院に外祖父母と共に一旦納骨された。1987年(昭和62年)に母が亡くなると、母の半分の遺骨と共に愛新覚羅社[注釈 3]に移されて納められた。1994年(平成6年)に父が亡くなると、中国に残されていたもう半分の遺骨が父母とともに北京郊外の妙峰山上空にて散骨された。
慧生と中国

慧生は学習院幼稚園に入園以後ずっと日本で生活をしたが、中国への関心を持っていたとされる[注釈 4]

慧生は読書家であったが、その関心の一部は中国文学や漢詩、自身の先祖にあたる王朝に関する書物などに向けられていた。

1955年(昭和30年)[8]、父の従弟の溥儒(zh)が来日してしばらく逗留した際には、その通訳をしている。慧生は溥儒によって佩英(ペイイン。水晶の飾り玉のこと)という号をつけてもらっている。溥儒が来てから、慧生の中国人としての自覚は一段と高まり、私服で外出するときは好んで高い詰襟の中国服を着るようになった。

その一方で、慧生自身が大学時代に親友に中国へ帰国する意思のないことを打ち明けている[9]
趣味

音楽に関心があり、
ピアノヴァイオリンを習っていた。4歳(数え年)になる頃、皇帝からピアノを買い与えられたが、李香蘭と同じ講師に教わっており、彼女と一緒に演奏したこともあった[10]。少ししてからヴァイオリンも習うようになり、満州では皇帝のピアノ伴奏に合わせて弾いていた。学習院入学後は当時世田谷に住んでいた鈴木鎮一の指導を受けていたが、同じ仲間に豊田耕児がいた。1942年(昭和17年)、満州国建国10周年に高松宮が来満した時は、その記念として慧生が「高松宮殿下奉迎歌」を日本語と中国語の2カ国語で歌い、レコードを作った。

上記の「慧生と中国」でも触れたが、読書家である。母の浩は、慧生の読書癖は父親似であると推察している。

評価

慧生について、妹の?生は「ユーモラスで頭の良い人なのですが、威厳というか気品があり、姉妹といえども近付き難いところがありました」と述べている
[11]

中国の首相の周恩来は1961年(昭和36年)、中国に帰国したばかりの母の浩や父の溥傑らを食事に招いた際に、慧生について、「彼女の手紙を読んだことがあり、あのような勇敢な子が好きです、若い人には勇気が必要だ」と述べた[12]

愛新覚羅慧生を演じた女優
映画

三ツ矢歌子 : 『天城山心中 天国に結ぶ恋』(1958年、石井輝男監督)※名前は「王英生」に変更されている。

高野通子 : 『流転の王妃』(1960年、田中絹代監督)※名前は「呼倫覚羅英生」に変更されている。

テレビドラマ

早瀬英里奈森迫永依 : 『流転の王妃・最後の皇弟』(2003年、テレビ朝日

田畑亜弥 : 『日本史サスペンス劇場』(2008年11月12日、日本テレビ)※再現ドラマ

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 哲学は赤(社会主義)に染まりやすいことと、その年に哲学科を受験する予定の女子は一人のみで、男の学生と混じって哲学を論じているうちに女らしさが薄れ、生涯を独身で過ごす可能性を懸念されたため[2][3]
^ Oが嵯峨家を訪れた際には、母は「あのひと一体なに?ガス会社の集金人かと思った」と嘲笑したとされる[4]
^ 山口県下関市中山神社(浩の曾祖父である中山忠光が祀られている)境内に建立された摂社
^ 慧生の国籍は在日華僑[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef