意志と表象としての世界
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1812年、ベルリン大学にて講義を受ける中でJ・G・フィヒテとF・シュライエルマッヘルに対する尊敬が軽蔑と否定に変わったに反し、古典文献学者F・A・ヴォルフのギリシア古典並びにギリシア文学史の講義を聴き、学者として、また人間として彼を高く評価するに至った[9]

1813年、博士学位論文『根拠の原理の四つの根について』を完成、翌1814年には東洋学者フリードリヒ・マイヤーを通じて古代インド哲学、とくに『ウプネカット』を知り、ショーペンハウアーの全思想が決定づけられることとなった[10]

博士論文『根拠の原理の……』では、カント由来の「純粋表象(blose Vorstellung)」を重要概念として発展させたラインホルトのエレメンタール・フィロゾフィーの表象理解が継承されている[11][注 3]

1817年、『意志と表象としての世界』に対する準備工作が、三月から始めた「全体を、関連する論説でもって人々に把握させ得るようにすること」の範囲では終了した。

1818年5月、『意志と表象としての世界』完成。1819年初め、『意志と表象としての世界』がブロックハウス書店から刊行された[1]

作者ショーペンハウアーは、この書を一生の大作、主脳の著作、Hauptwerkとして、他は皆その註脚だとしていた[13]

解説

本書の特徴として、第一に、作者は認識論の上で全くカントを継承しており、カントを簡明にし、明快にその観念主義を発揚している
[14]

世界を現象として観じ、

「直観」の方式である「時間と空間」

「理解」の方式である「因果」

これ等を認識に応用して生ずる「根拠」の原理

を「現象世界」の避くべからざる制約として、これと「物自体」とを峻別した事は、その哲学の根本であり、また最大特徴であり、本書の第一巻は即ちこの方の見方を最も明快に叙したものである。[15]

第二に、意志としての世界で、我々に最も直接な意志から出発して、一切の本性、自然の本体をもそれに認めた事は、形而上論として最も独創的な方面である[16]

意志本位の思想は、インドの哲学(仏教の心、ヴェーダの慾)やギリシャの哲学(エンペドクレスの愛と憎しみ)などにもあったが、作者の意志説は直接の意識から出て、現象の世界と相対したもので、動かし難い強みを持っている[16]

この見方が十九世紀後半以後の心理学に影響したが、特に特徴とすべき点は、「意志」を「物自体」として、一切自然や人生を意志争?の場と見た事である。これは近世思想の新風潮で、後にダーウィンが種の成立を説明するに生存競争を以てしたのと同じ見方であり、中世思想が夢想しなかった深刻沈痛の教えである[16]

この見方からして作者の厭世観も出たのであり、またこれは近世文明の「自由競争」や「個人主義」と密接している事であるが、しかし作者は他方に「万物の調和融合」を見(特に第二十八章:意志発表の調和適応)、古代以来の理想派に接触している[16]

この点で作者は、世界のこの二方面の間に彷徨した一つの煩悶児であるが、作者の勇猛心もまたここから出ている。作者の形而上論を見るものは、この二面の併存している事を忘れてはならない。[17]

第三に、「観念の顕照」として作者が見た世界は、全くプラトンの理想から出たもので作者の意志形而上論の光明ある方面であり、終局目的観に近接した理想的の見方である[18]

美術は総てこの観念の認識(根拠の原理に従わない)から出るとして、ここに作者は意志争?以上の世界を観じたのである[18]

この方面で作者の美論は抽象理想説だとの批評もあるが、能く見れば、それほど抽象的な美の理想でなく、特に美の原型が現象以上に厳存しているのを主張したもの、もしこれを現実の世界に引き下して来れば、インド哲学の事相観にもなり、万有の現象を直に神智の開顕ともし得べきものである[18]。ただし作者が、この顕照の世界を「主我我欲の現実界」と峻別したのは、著しい事で、「超然主義」の傾きある事は免れないが、これを直に具体的理想説の反対の如く見倣すのは、極端の見方だろう[18]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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