惟康親王
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注釈^ 23年に及ぶ将軍在任期間のうち、皇族王として4年5か月、源氏として16年9か月、親王として2年弱を過ごした[2]
^ 『若狭国税所今富名領主代々次第』(『群書類従』第四輯所収)には、時宗について号徳崇(徳崇は義時の追号とされる)と記している[3]
^ この政策については、足利家時伊予守に任じられたのを、蒙古襲来に対して「治承・寿永の乱における軍事統率者および勝利者である源義経」の再現を意図したものであるとする別の見解[4]も出されている。
^ 親王宣下は貞時と頼綱双方の家格向上の意図もあり、貞時は惟康の親王宣下後から将軍解任直前までに父時宗を上回る従四位下へ昇叙、頼綱の次男飯沼資宗は御内人としては異例の検非違使に任命されるなど地位向上の成果を上げた。
^ 以上に示した見解は、細川 2007に基づく。
^ 惟康自身への親王宣下に加え、親王の2人の妹(?子女王、瑞子女王)が後宇多天皇の後宮なるなど大覚寺統との繋がりを持ちつつあった。また、後宇多天皇も宗尊親王の生母(惟康から見れば祖母)である平棟子に准祖母待遇を与えている。
^ 曽我部愛は、親王将軍(宮将軍)の成立そのものに皇位の奪還の動きを諦めない順徳上皇系の皇族(岩倉宮・四辻宮など)の動きに対抗する後嵯峨上皇の関与を指摘している[8]
^本朝皇胤紹運録』『尊卑分脈』『諸門跡傅』では宗尊親王の子および久明親王の子として両方に記載がある。『天台座主記』『僧官補任』では久明親王の子とする。
^吾妻鏡』同日条。正元二年二月小五日癸卯。晴。酉剋。故岡屋禪定殿下兼經公御息女御年二十爲最明寺禪室御猶子。御下着。則入御山内亭。是可令備御息所給云々。

出典^ 『惟康親王』 - コトバンク
^ 細川 2007, p. 102.
^ 細川 2007, p. 98.
^ 前田 2010
^ 曽我部 2021, pp. 235?238.
^ a b 曽我部 2021, pp. 238?241.
^ 竹ヶ原 2014, p. 155
^ 曽我部 2021.
^ a b 曽我部 2021, pp. 241?242.
^ 竹ヶ原 2014, p. 159
^ a b c d e f g h i j 竹ヶ原 2014, p. 152

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