惟康親王の系譜
後鳥羽天皇
土御門天皇
源在子
後嵯峨天皇
源通宗
源通子
宗尊親王
平棟範
平棟基
平棟子
惟康親王
近衛基通
近衛家実
坊城顕子
近衛兼経
藤原季信
宣陽門院右衛門督
近衛宰子
九条良経
九条道家
一条能保の娘
九条仁子
西園寺公経
西園寺?子
一条全子
惟康親王は源義朝の女系子孫にあたる(頼朝同母妹の坊門姫は上記系譜にある一条能保室で、九条良経室と西園寺公経室の母)。正元2年2月5日(1260年3月18日)、第5代執権・北条時頼は京より近衛宰子を猶子に迎え、将軍・宗尊親王の御息所として備えた[注釈 9]が、宰子が宗尊親王に嫁げば、その間に生まれる子も義朝の血筋を引くことになるため、時頼はこのことを宮将軍の正統性を下支えする要素として重視していた可能性がある[12]。 偏諱を与えた人物はいない。鎌倉時代において元服時に皇族将軍から一字拝領するのは北条氏の得宗家と赤橋家に限定されており、惟康親王の在任時においては北条貞時や北条久時が該当していたが両者と共に惟康親王より偏諱を受けなかった。貞時は平貞盛から一字を取ったという説が提唱されている(貞時の項を参照)。久時は久明親王から一字拝領受けたとされるが、惟康親王在任時から官位を受けるなど既に元服していた可能性もある。
偏諱を与えた人物