26歳となった正応2年9月14日(1289年9月29日)には将軍職を解任され[10]京に送還された。理由やくわしい経緯は不明である。『とはずがたり』によれば、鎌倉追放の際、まだ惟康親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた惟康親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる。人々は「将軍都へ流され給う」と評したという(『増鏡』第11「さしぐし」)。同年10月には惟康に代わって久明親王が将軍となり鎌倉入りしている。
帰洛後の同年12月6日に出家するが、その後の動向については晩年に至るまでほとんど不明である。
永仁3年(1295年)には惟康親王の娘の中御所が久明親王の正室に迎えられている。これで義理とはいえ惟康と久明は父子ということになり、宗尊親王の系統が存続されることになった(結果的に鎌倉幕府最後の将軍となる守邦親王は惟康の外孫ということになる)[9]。
嘉暦元年(1326年)10月30日薨去。享年63。鎌倉幕府の歴代征夷大将軍の中では最も長命であった。 ※日付=旧暦
官歴
文永3年(1266年) 7月24日:従四位下に初叙。征夷大将軍宣下[11]。
文永7年(1270年) 12月20日:源姓賜与され臣籍降下、正三位、左近衛中将[11]。
文永8年(1271年) 2月1日:尾張権守兼任[11]。
文永9年(1272年) 1月5日:従二位[11]。
建治2年(1276年) 日付不詳:讃岐権守兼任、尾張権守任替[11]。
弘安2年(1279年) 1月23日:正二位[11]。
弘安10年(1287年) 6月6日:中納言、右近衛大将兼任[11]。9月26日:右近衛大将辞任[11]。10月4日:親王宣下、二品[11]。