惑星の定義
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ハーシェルが彼の「彗星」の発見について公表する前、同僚のイギリス人で王室天文官ネヴィル・マスケリンは、「私はそれを何と呼ぶか知らないが、太陽の周りを非常に扁平な軌道で公転する彗星よりもほぼ円の軌道で公転する通常の惑星の方により近いと考える。また、彗星に見られるはずのコマや尾もまだ観測されていない」と手紙を送った[21]。さらにその「彗星」は、単なる彗星なら自重で崩壊してしまうほどの遠くにあった。最終的に、この天体は7つめの惑星であると認識され、サターン(土星)の父の名前にちなんでウラヌス(天王星)の名前が付けられた。

天王星の軌道の不規則性に与える重力の影響により、1846年に海王星が発見され、また海王星の軌道の不規則性により、1930年に最終的に冥王星が発見された。当初は地球程度の質量であると見積もられていたが、観測の進展によりその大きさはどんどん小さくなって、当初の5%程度の大きさと、海王星の軌道に全く影響を及ぼさない程度になってしまった[20]。1989年のボイジャー2号の観測により、この軌道の乱れは海王星の質量を過大に推定したことによるということが明らかとなった[22]
衛星ガリレオ・ガリレイ

コペルニクスが地球を惑星と定めると、同時に彼は月を地球の周りを回る衛星であるとした。ガリレオ・ガリレイが1610年に木星の4つの衛星を発見すると、他の惑星も地球と同様に衛星を持ちうるというコペルニクスの説は説得力を増すこととなったが、これらの天体が「惑星」であるかということについては論争が続いていた。ガリレオはこれらについて、「異なる軌道半径と軌道周期をもって木星の周りを公転している4つの惑星」と記述している[23]。同様に、クリスティアーン・ホイヘンスは1655年に土星最大の衛星タイタンを発見し、それに対してplaneta(惑星)、stella(恒星)、Luna(月) 、satellite(衛星)等、様々な用語を用いた[24]。1671年と1672年にイアペトゥスレアを発見したジョヴァンニ・カッシーニは、それらをNouvelles Planetes autour de Saturne(土星を公転する新しい惑星)と呼んだ[25]。しかし、Journal de Scavans誌が1686年にカッシーニによる2つの土星の衛星の発見を掲載すると、これらは厳密に「衛星」として扱われた[26]。またウィリアム・ハーシェルが1787年に天王星の2つの衛星を発見すると、彼はそれをsatellites(衛星)、secondary planets(二次惑星)と呼んだ[27]。その後に出版された新しい衛星の発見に関する論文や出版物ではほぼ全てでsatellite(衛星)という単語が使用されている[28]が、1868年に発行されたSmith's Illustrated Astronomy では、衛星のことを secondary planets(二次惑星)と呼んでいる[29]
小惑星ケレスの発見者ジュゼッペ・ピアッツィ

太陽系の惑星数の変化(ソーター(英語版) による)[30]年惑星の数出来事
******* 7七曜
1543****** 6太陽を除外、地球が加わる
1782******* 7天王星発見
1801******** 8ケレス発見
1802********* 9パラス発見
1804********** 10ジュノー発見
1807*********** 11ベスタ発見
1845************ 12アストラエア発見
1846************* 13海王星発見
1847**************** 16ヘーベイリスフローラ発見
1848***************** 17メティス発見
1849****************** 18ヒギエア発見
1850********************* 21パルテノーペビクトリアエゲリア発見
1851*********************** 23イレーネエウノミア発見
1852******** 8小惑星の除外
1930********* 9冥王星発見
2006******** 8冥王星の除外

ハーシェルによる天王星の発見の予期せぬ結果の1つが、ティティウス・ボーデの法則が実証されたことだった。天文学者達はこの「法則」を偶然の一致で意味のないものだと考えていたが、天王星はこの法則が予測した距離と非常に近い位置に発見された。ティティウス・ボーデの法則はまた、当時何も観測されていなかった火星と木星の間の軌道にも天体が存在すると予測しており、天文学者達はこの法則を再び実証するためにその領域の観測を続けた。1801年ジュゼッペ・ピアッツィがまさにその場所にケレスを発見した。この天体は、新しい惑星として認められた[31]

1802年ヴィルヘルム・オルバースが、おおよそ太陽とケレスの間の距離と同じ軌道を公転している2つ目の「惑星」であるパラスを発見した。2つの惑星が同じ軌道を共有するということは、それまで長年信じられてきた常識を覆すものであった(ウィリアム・シェークスピアも、嘲りの言葉として「1つの天球上で2つの星が同じ動きをすることはできない」という表現を用いている[32])。さらに1804年、同じような軌道にジュノーが発見され[31]、1807年にはオルバースが同じ軌道の4つ目の天体ベスタを発見した。

ハーシェルは、パラス発見直後の1802年には新たなカテゴリの必要性を指摘し[30]、のちにはこれらを「小惑星」という新しい分類に含めることを提案したが、多くの天文学者はこれらを惑星と呼び続けることを好んだ[31]。この考え方は、ほとんどの小惑星は星表に未掲載の恒星と区別することが難しいため、1845年までに発見された小惑星が4つだけであった事実により定着した[33][34]。ハーシェルの死後の1828年の科学の教科書では、まだ小惑星を惑星として数えていた[31]。星表が充実してきたことによって小惑星の探索が再開され、1845年と1847年に5番目と6番目の小惑星がカール・ヘンケによって発見された[34]。1851年までに小惑星の数は15個までに増え、天体の名前の前に発見された順番に番号を付けるという新しい分類方法が受け入れられ、ケレスは"(1) Ceres"、パラスは"(2) Pallas"等のように表されるようになった。

そして、1850年代には(1つの目安として1852年ともされる[30])これらの天体を別の分類体系に含めるということが主流になった。1860年代までに、発見された小惑星の数は100を越え、ヨーロッパやアメリカの観測所ではこれらをまとめてminor planetsやsmall planetsと呼ぶようになった[31]。この頃は、minor planetという用語は太陽の周りを公転する小さな天体全てを表す公式な名称となっていて、新しく発見された天体には、国際天文学連合の小惑星カタログに従った番号が付けられた[35]
冥王星詳細は「惑星X」を参照冥王星の発見者、クライド・トンボー

ケレスの発見に始まる惑星の定義の見直しの長い道のりは、冥王星の発見後も続いた。冥王星は1930年にクライド・トンボーが発見し、その直後に命名された。天王星と海王星は、その円形の軌道、大きな質量、黄道面の近接等の観測結果に基づき、惑星であると宣言された。しかし冥王星には、これらの性質は全て備わっていなかった。冥王星は小さな氷の天体であり、黄道面は大きく傾いており、軌道は海王星の内側に来る期間があるほど離心率が大きい。1978年には冥王星の最大の衛星であるカロンが発見され、冥王星の正確な質量を測定することが可能になった。その結果、冥王星は、多くの人が予想していたよりもはるかに小さく、地球の月の6分の1の質量しかなかったことが明らかになった。しかしこの頃は、これらは冥王星の独特な性質だと考えられただけだった。1992年始め、天文学者達は海王星の軌道の外側に、組成や大きさ、軌道の特徴の面で冥王星と性質が似ている沢山の氷の天体を発見し始めた。彼らは、長い間予測されたまま発見されていなかったエッジワース・カイパーベルトをついに発見したと結論付けた。これは氷の塵でできた帯状の領域で、軌道周期200年以下の短周期彗星の起源となる領域であった[36]

冥王星の軌道はこの帯の中に位置していたため、その惑星としての地位には疑問が投げかけられた。多くの科学者が、ちょうど1世紀前にケレスがそうであったように、冥王星は小惑星として再分類されるべきだと結論付けた。


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