情報調整局
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設立に伴い、海外情報サービス(FIS)が運用され、国際ラジオ放送(VOAの前身)が開始され、1941年12月の日本の真珠湾攻撃以後は日本に向けた戦争のプロパガンダの手段として利用された[5]。シャーウッドは、ラジオプロデューサーでルーマニア出身のジョン・ハウスマンを雇い、枢軸国側に向けたプロパガンダ放送局ボイス・オブ・アメリカを運営した[6]ナチス・ドイツに向けた最初の放送は1942年2月1日に放送され、「わたしたちはこれから真実を放送する」と告げた[7]

ドノバンの構想では、プロパガンダ(広報)を軍事戦略として用い、シャーウッドはのちにパブリックディプロマシー(政府と民間が連携して広報や文化交流を通じて外国の国民や世論に直接働きかける外交活動[8])として知られる手法を主張し、両者はしばしば方針をめぐって対立した[9]

1942年6月13日、ルーズベルトは情報調整局を、戦略情報局(OSS、後の中央情報局〈CIA〉)と戦時情報局(OWI、のち国務省隷下となりアメリカ合衆国情報庁〈USIA〉)に分割した。

OSS、OWIはともに戦時下におけるプロパガンダ組織だが、前者は諜報活動のような、非合法な手段によって公衆に不信・混乱・恐怖を与えることを目指す「黒いプロパガンダ」を担当し、後者は放送のような、情報を明瞭な事実として公衆に理解させることを目指した「白いプロパガンダ」を担当した[5]。VOAは戦時中に、OWIに所属する米国広報庁(USIS)のもとで拡大され、1953年にアメリカ合衆国情報局(USIA)が設立されるとさらに拡大・整備されていった[5]。なおUSIAは1999年に、テレビ部門が放送理事会(英語版)(BBG)、それ以外の機能がアメリカ合衆国国務次官(公共外交・広報担当)に移行した。
脚注^ “O.S.S.-State Department Intelligence and Research Reports”. 国立国会図書館憲政資料室 (2018年2月9日). 2020年6月13日閲覧。
^ “Records of the Office of Strategic Services, Washington Director's Office Administrative Files, 1941-1945”. 国立国会図書館憲政資料室 (2018年8月9日). 2020年6月13日閲覧。
^ 長南政義. “ ⇒トーチ作戦とインテリジェンス(19)”. 「トーチ作戦とインテリジェンス」メールマガジン. 2020年6月13日閲覧。
^ Houseman, John, Front & Center, 1979, New York: Simon and Schuster, pp. 45-46.
^ a b c冷戦期のアメリカの対日外交政策と日本への技術導入 : 読売新聞グループと日本のテレビジョン放送及び原子力導入 : 1945年?1956年第1章 アメリカの心理戦とテレビジョン放送 奥田謙造、東京工業大学、2007/03/26
^ Houseman, John (1979), op. cit., p. 23.
^ Kern, Chris. “ ⇒A Belated Correction: The Real First Broadcast of the Voice of America”. 2014年4月19日閲覧。.
^ よくある質問集 外務省
^ Houseman, John (1979), op. cit., pp. 25-28.

参考文献

Houseman, John, Front & Center, 1979, New York: Simon and Schuster.

外部リンク

COI Came First
, CIA公式サイト、2014年4月19日閲覧。


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