角川春樹のプロデューサーとしての手腕を見込んだ岡田茂東映社長の要請で[12][13][14][15]、角川は本作で初めて独立プロ(角川映画)のプロデューサーを離れ、メジャー内部に単独で乗り込みプロデュースを行った[12][14][16][17][18][注 23]。本作と合わせて高木彬光原作の『白昼の死角』も東映で映画化権を獲得し[20]、岡田は「新しい映画作りの担い手として角川春樹氏の手腕を私は高く評価している。角川事務所と初の提携作品となるが、二本とも角川氏に製作者になってもらうことで意見の一致をみた。バイタリティと行動力、それに新しい時代にマッチした作品が出来ると確信している。当社の目玉にしたい」と説明した[20]。本作は全額東映の出資の東映映画で、角川は東映の雇われプロデューサーとしての申し入れを「これまでの恩返しにもなる」と承諾した[12]。依頼された時点では何をやるか全く決まっていなかったが、角川は岡田に損をさせてはいけないと慎重に企画を練り、"金田一シリーズ"は二番煎じとなるが、興行的な安全パイを考えると横溝作品は外せないし、西田敏行サイドから是非、映画に出たいという強いオファーがあり、西田に会ってみて、こういう金田一耕助像もありかなと思い、本作品を選んだ[12]。監督は毎日放送製作のテレビドラマ版『獄門島』(1977年)の視聴率がよかった斎藤光正を起用した[12]。
1978年7月6日、帝国ホテルで製作発表会見があり[15]、岡田茂東映社長、角川春樹プロデューサー、横溝正史、斎藤光正監督、音楽担当の井上堯之[15]、山本邦山の他、西田敏行、鰐淵晴子、宮内淳ら出演者が出席した[15]。会見で岡田東映社長は「横溝氏の原作が発表されて間もなく、昭和24年から36年にかけて東映は氏の代表作のすべてを片岡千恵蔵の金田一耕助で七本映画化しており、これで元の本家に戻ったことになる。プロデューサーに角川春樹氏を迎えたのは従来の企業製作から脱却し『新体質の映画作りを目指す』東映の新方針に基づくものだ」などと話した[15]。角川春樹は「今回はプロデューサーとして東映に雇われたわけで、すべて東映の金で製作する。その第一作は何にするか考えたが『悪魔が来りて笛を吹く』に決めたのは『犬神家の一族』を作ったとき、どちらにしようかと迷ったくらいに印象深く残っていた作品だからだ。『悪魔が来りて笛を吹く』を成功させて、東映でのプロデュース第二弾は高木彬光原作の『白昼の死角』を準備している。宣伝面では音(笛の音)を中心に耳から攻略する方針で、超大型予算をラジオスポットに投入[注 24]し、これにテレビを加えて電波をすべて攻略する」などと話した[15]。また「製作費5億円、宣伝費2億円にプリント費1億5,000万円を加えた総原価が8億5,000万円。配収目標は10億円と設定。(1978年)9月中旬クランクイン、11月末完成、12月試写。1979年1月20日から正月第二弾として一本立封切する」等、合わせて説明があった[15]。『週刊明星』1978年10月29日号には、製作費6億5,000万円[17]、配収目標は7 - 8億円と書かれている[17]。
キャスティングほか
斎藤光正の監督抜擢は、角川映画の黒井和男とダブル番頭格だった古澤利夫(藤峰貞利)によるもの[22]。