悪党
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以上に見られる御家人層内部、もしくは荘園支配内部における諸々の矛盾は、中世社会の流動化へとつながっていき、13世紀後半からの悪党の活発化をもたらした。さらに同時期の元寇もこれらの矛盾をさらに増大させ、悪党活動の更なる活発化を促したのである。
展開

外部から荘園支配に侵入する悪党のほか、蝦夷海賊的活動を行う海民なども悪党と呼ばれたが、これは支配体系外部の人々を悪党とみなす観念に基づいている。諸国を旅する芸能民や遊行僧などが悪党的性格を持つとされていたのも同様の理由からだと考えられている。蝦夷、海民、芸能民、遊行僧らはいずれも荘園公領制的な支配体系の外部に生きる漂泊的な人々であり、支配外部にいることを示す奇抜な服装、すなわち異形の者が多かった。網野善彦は、これらの「悪党」が13世紀半ばから急速な成長を見せた流通経済・資本経済の担い手であり、中世社会の新たな段階を切り開いた主体の一つと説いた[3]

支配体系外部からの侵略者のみを悪党と呼ぶ状況に変化が生じたのは弘安年間(1278年 - 1288年)のことである。この時期には荘園支配内部の対立関係がついに顕在化し、本所に対する荘官(在地領主)層の抵抗活動が抑えられなくなり、本所と対立した荘官・在地領主層は本所から悪党と呼ばれ始め、本所との所領紛争を展開していった。もっとも、それ以前から地頭は本所と対立し、荘園侵略を進めていき、地頭請所下地中分などの契約を行っていた。つまり鎌倉幕府という背景を持たずして荘園侵略を進めていった在地領主層が、悪党と呼ばれたのである。

御家人階層に目を向けても、単独相続などにより所領を失った無足御家人が旧領に残留し、新地頭の支配を妨害して悪党と呼ばれる事例が発生していた。非御家人のみならず、御家人も「悪党」として扱われるようになり、観念の非常に大きな変化の現れであった。

この段階において、本所と対立した荘官層には、上に挙げた漂泊的な悪党も含まれていたと考えられている。彼らの中には、各地を往来しながら交易にたずさわり、流通経済の担い手として資本を蓄積し有徳人と呼ばれる者もいた。そうした有徳人が経済力を背景として荘官に補任され、所領経営に乗り出す例もあったのである。また、在地の荘官と対立した本所は、荘官に頼らず、独自に年貢物資を運搬する流通経路を確保する必要に迫られていたが、ここで年貢物資流通を担ったのが漂泊的な悪党なのであった。

13世紀後半以降、悪党は畿内・東北・九州などで活発に活動し、御成敗式目で禁止されている悪党と地頭の結合など見られるようになった。悪党の活動は支配体系の流動化を招き、幕府はこれに対応するため、13世紀末から悪党鎮圧へ積極的に取り組み始めた。

元々、本所一円地における警察権・司法権は本所の所管であり、朝廷が裁定することとなっていた。しかし、悪党の著しい横行により本所は幕府へ鎮圧を強く要望していった。幕府の側としても、非御家人層が独自に「荘園侵略」を行う事や、幕府の御家人でありながら幕府支配を妨害する存在は、看過できるものではなかった。そこで、1290年代前半になって確立されたのが次の鎮圧手続きである。まず本所が朝廷へ訴えを起こし、朝廷の召喚に被告人(=悪党)が応じない場合は、違勅があったとして朝廷から幕府へ検断を命じる。このとき幕府が受ける命令を違勅綸旨または違勅院宣という。綸旨・院宣を受けた幕府は御家人2人を使節に任じた(両使)。両使には、任務遂行のため、守護不入とされている本所一円地への入部が許されており、さらに本所側へ下地遵行を指示する権限が与えられていることもあった。悪党追捕のために始まったこの手続きは、朝廷に持ち込まれた寺社権門間の雑訴沙汰(所領訴訟)においても採用され、更には室町時代の使節遵行権の根源となった。

だが、違勅綸旨または違勅院宣が出されると、朝廷と協力して治安維持にあたるという当時の方針の建前上、被告人が御家人でなおかつ正当な主張があったとしても「悪党」と認定されてしまうと幕府が御家人を保護することが困難になり、幕府には検断を先延ばしにしてその間に御家人を説得して朝廷の処分に従わせて綸旨・院宣の内容を実現する以外の方策しかなく、十分な保護を受けられなかった御家人の幕府への信頼を揺るがしかねない側面も有していた[4]

この時期の著名な悪党が、12世紀から14世紀にかけて東大寺領黒田荘(伊賀国)で活躍した「黒田悪党」大江氏である。12世紀から代々と同荘下司職を勤める大江氏は、13世紀後半に黒田荘への支配権を強化しようと画策し、東大寺と対立してついに悪党と呼ばれるようになり、最終的には東大寺の要請を受けた六波羅探題に鎮圧された。しかし、代わって同荘荘官職についた大江氏一族もまた、年貢納入を行わないなど東大寺との対立を深め、供御人と称して朝廷と直接結ぼうとし、これを鎮圧するはずの伊賀国守護、同御家人らと結んで、黒田荘を実質的に支配するに至った。結局大江氏は六波羅探題に再び鎮圧されたが、ともかくも、この事例は経済的な成長を果たそうとしている在地領主荘園領主の抑圧を受けたときに悪党となることを示した典型例である。このほか、鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成河内国)、赤松則村播磨国)、名和長年伯耆国)、瀬戸内海の海賊衆らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている。

また、古典的な説としては、室町幕府の執事高師直は革新的な政策を打ち出すことで、(本人は悪党ではないが)悪党からの支持を得て大勢力となったとされる[5]
南北朝の動乱

鎌倉幕府が滅亡し、ほどなくして南北朝時代に突入すると、南北両軍の有力武将に率いられる形で、御家人層であった武士の、過去に類を見ないほど大規模な転戦が見られるようになる。これは、旧来の御家人層の基盤であった荘園制が、悪党化した御家人の跋扈によって崩壊し、却って彼らの地位が不安定化したことにあった。そのため、彼ら御家人は、従軍して武功を挙げることにより、新たな所領を恩賞として獲得することを目指して、これらの軍に加わっていた。

しかし、御家人の無秩序で大規模な従軍により、軍隊の首脳陣による人員の管理が行き届かない状態に陥った。戦地へと向かって行軍するだけで絶え間ない兵糧の不足に苦しめられるようになり、内乱の初期にあっては、兵糧米の供出をもって軍忠を評されていたが、やがて内乱が長期化するとそのような恩賞は出されなくなったことから、行軍中の略奪が常態化するようになったものと思われる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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