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しかし、韓国古典文学や演芸には喜びとユーモアがあふれており[8]恨が表面化しておらず、それを和らげる方法としてハッピーエンドのパンソリ叙事詩が機能していた[9]。この時代の恨はユーモアと表裏一体を成していたといえる。
併合前後 

1907年に集団として直接的に恨を表現する様子を宣教師のウィリアム・ブレア[注釈 1]がはじめて観察しているが、これは韓国の恨の文化が対外的にはじめて認知された一例である。それは苦痛を伴う告白(悔悟)による忘却の促進と魂の浄化(再生)を担っていた[10]

併合後、日本の同化政策に批判的であった柳宗悦[注釈 2]は当時の底辺階級を文化的に引き上げることを芸術面で目指したが、却って韓国人は文化面における伝統の欠如、自我自主意識の没却[11]に直面することとなった。同化政策の中にあって自己喪失への恐れは独立運動の度重なる失敗と挫折により韓国人の悲しみを伴った自己希求「恨」を更に強く刻む結果になった。以後、メディア[注釈 3]や政権側[12][注釈 4][13][注釈 5]で共通の悲しみを通して連帯を生むため、不平等を受容させるために文化面[14]だけでなく政治的に利用されていくこととなる[15]

不幸な歴史に対する前向きな忘却を果たしていた個人的民衆的「恨の文化」は、忘却を恐れることで劣等感を記憶し相対的剥奪感を受け入れ維持させる集団的なものへと変化し、経済格差や南北分断など恒常的な不安定環境がその表現範囲も複雑化させていった[16]
独立後「現代韓国の恨」 

朝鮮の独立が、民族運動として失敗して弾圧され、自らの力でなく第二次世界大戦の講和交渉として、頭ごなしに連合軍の力によって達成されたことは、後の世代の「恨」となった。また韓国について言えば、独立後の外圧によって成立した李承晩政権の腐敗した独裁政治、朴正煕の鉄拳統治、さらにそれ以後の軍事政権光州事件など、内なる弾圧の歴史も「恨」となっている。それで今日得られなかった勝利の代替物として、あるいは抵抗精神の表れとして、例えばスポーツなどにおける日韓戦に必要以上に熱狂[17]したり、与野党の争いや労働組合の労使紛争において憤りの余り過激な行動をとったりするのである。また、日本(大日本帝国)による併合が「長い抑圧と屈辱の歴史」であったという反日教育の源泉ともなった。

前近代韓国の恨と異なり強力な怒りと結びつく点は、1994年には「火病[18]の原因の一つと見なされたこともある。

宮脇淳子は、「朝鮮半島特有の思考様式。歴代シナ王朝への服従や日本による統治、あるいは李氏朝鮮時代の両班支配など、どうにもならない抑圧屈辱の歴史の中で、自ら不幸を嘆き、自分以外の何かを恨み、それに対する抵抗心をバネにして生きていかざるを得なかった歴史から生まれたと考えられる」と定義している[19]
独立後「現代北朝鮮の恨」 

1972年に北朝鮮で金日成日本への抵抗時代に創作したと主張する文学原作にした映画『花を売る乙女』が上映された。この金日成の文学思想を代表する作品からは、ナショナリズムや「恨」を個人崇拝の道具として利用する様子を垣間みることができる[5]。この映画は、家族悲劇的運命から、「恨」の恨みを晴らすために、朝鮮人を導くのに最もふさわしい存在は誰なのか、という心理的含意へと導いていく[5]権力の頂点に立った金日成は、一連のプロパガンダを通じて、白衣民族の唯一無二のスポークスマンとして自らを全能の民族神へと変身させ、白衣民族血統の純粋性を強調することにより、その血統の純粋性を破壊者から守る守護者という正統性を強調している。ナショナリズムのなかに神話が埋め込まれ、退屈な支配者の空疎な説教だった主体思想は、外的抑圧者に対して「恨」の恨みを晴らすというテーマを強調することにより、特別な生命が吹き込まれた[5]

金明哲は、朝鮮の伝統とは、一言でいえば「恨からいかに解放されるか」という命題であると指摘する[5]。「北朝鮮の指導者は、『恨』を討つ最高指導者でなければならず、したがって、金日成金正日が『恨』との聖戦の最高指導者であることは必然であり、金日成金正日であるならば、朝鮮人は『恨』の恨みを清算することができる」という朝鮮人の社会心理を理解しなければ、金日成金正日が北朝鮮で受け入れられている現実を理解することは難しい[5]

単一民族という民族血統の純粋性を誇る一方、他国に虐げられ続けてきたという歴然たる事実が国民精神の奥底に潜み、果てしない「恨」を生み、朝鮮人の集団的性格となる[5]金日成金正日は、このような国民の「恨」を利用することで個人崇拝を推進した。白頭山信仰主体思想の背景には排外主義的人種差別がみられる。金正恩は、金日成のヘアスタイル容貌、体型をわざと真似るような子供じみた純朴さを強調することにより、自らが最も純粋な血統の朝鮮人であり、それゆえ北朝鮮人を率いて「恨」の恨みを晴らすのに最もふさわしい存在であるとアピールした[5]
「長い抑圧と屈辱の歴史」状態への批判

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「恨の文化」の根底とされる韓国の 「長い抑圧と屈辱の歴史」自体を否定する研究者もいる。

マーク・ピーターソン[注釈 6]は日本統治時代を含めて、韓国は大きな侵略も無く長期的な平和と安定を持っていたと主張している[20]。大国である韓国が20世紀の犠牲に縛られることは相応しく無いとし、そもそも侵略の歴史はその正当化のために日本統治時代に刷り込まれたものであるとしている[21]。また当時の日本が批判した併合前の韓国王朝も前時代的[注釈 7]ではなく誇るべきだと指摘している[22]

またジョンダンカンは、韓国が絶え間ない侵略を経験した「苦しみの歴史」には実態が無い(神話的)としている[23]

デビッド・C・カンも、20世期に登場した韓国の被害者観は、いわゆるミーム(パフォーマンス)のひとつとしている[24]

共通することは「現代韓国の恨」が韓国社会や民族固有のものであり、他者(侵略者や歴史)に解決策を求める他責傾向や、過度な「劣等感」からくる自己不信のままでは解消できないことである。

一方、「恨の文化」の根底とされる韓国の 「長い抑圧と屈辱の歴史」自体を肯定する研究者もいる。韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった…韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。…建国時点である紀元前2333年から日清戦争の1895年までの4228年間にわたって中国の属国だった。…中国に1895年まで属していたが、1910年の韓日合併までの15年間にわたって独立を味わったりもした。…日本が中国の植民地だった韓国を救った。 ? スペイン、エル・ムンド[25][26]古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人の箕子が韓半島北部に建てた国だ。その当時、韓半島南部は日本の大和政権の支配下にあった。韓国は、強大国に挟まれて門戸を閉ざしていた「隠遁の国」であり、日清戦争以降、日本の支配を受けながら近代化に成功した。 ? コロンビア大学オンライン百科事典、アメリカ議会図書館[27]韓国は数百年間中国の属国だった。…日本は韓国の地で大きな発展を成し遂げた。鉄道と道路、港を建設し、産業を発展させて、教育機会を拡大させようと努力した。 ? カナダの歴史教科書[28]朝鮮は中国の属国だった。…1600年代はじめ、中国が朝鮮を再び支配した。300年間、朝鮮は中国の統治下にあった。 ? アメリカの教科書[29][28][30]朝鮮半島のあらゆる歴史は中国と日本の侵略と威嚇として綴られた。


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