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北朝鮮の民族主義者たちは、檀君神話が北朝鮮人の血統に純粋性を与え、日本の歴史よりも古い独自の歴史と文明があると信じている。北朝鮮が白頭山国家的シンボルにしたのは、日本富士山に対抗するためであり、富士山模倣する意味があった[5]。しかし、暴力が支配的だった20世紀を通じて、朝鮮東アジアのマイナーな存在であり続け、朝鮮の歴史は、その大半において、農耕文明中国儒教の影響により、他国を攻撃できるほど強くなく、遊牧民や海洋民族に対して常に守勢に立たされ続けていた[5]。他国から何度も侵略され続けた。朝鮮は有史以来、強大な隣国である中国に侵略され続け、中国を宗主国と仰ぎ続け、中国に朝貢し続け、中国の属国であり続けた。したがって、朝鮮人が中国に恨みを抱くのは当然であった。日清戦争後、朝鮮は台頭する日本に占領されてしまい、国籍名字を剥奪され、隣国である日本に対して恨みを抱くようになった[5]。北朝鮮は、南北が統一できないのは、歴史上かつてないほど長期間にわたって韓国に軍隊を駐留しているアメリカ人に原因があると考えており、アメリカ人に対しても深い恨みを抱いている。地球上、「」の哲学を信じる人は多いが、「恨」の哲学を信じる人は、おそらく朝鮮人だけである。朝鮮が歴史上受け続けてきた不正不幸に対して、真の償いと心からの謝罪がない限り、「恨」を抱き続けるということである。繊細で傷つきやすく、勝ち気で自尊心の強い朝鮮人は、自らの力のなさに目を向けるのではなく、「悪意のある世界に生きている」という外部に対する被害妄想をもち、有史以来、強大な隣国である中国日本侵略され続け、属国にされ続けてきたことによる隣国への「恨」は、教育を通じて次世代へと継承され続ける[5]

恨の文化は日本による韓国併合を前後として変化している。この恨の形成の裏には、儒教の教えや習慣が、本来の形を越えた形でエスカレートさせていったことが背景にあったと言われ、それは上位者の下位者に対する苛烈な扱いを正当化する解釈や、下位の者は過酷な立場を受容しなければならないとする解釈になった[要出典]。
併合前 「前近代韓国の恨」 

恨は、朝鮮半島代々の王権や両班による苛斂誅求を極めた階級的支配に対する民衆の抵抗意識と、漢代の昔より幾度となく朝鮮半島を襲った中国からの異民族(漢族モンゴル族女真族ほか)による侵略・征服で、永続的な服従を余儀なくされた「集団的トラウマと悲しみの記憶[7]」と定義される。しかし、韓国古典文学や演芸には喜びとユーモアがあふれており[8]恨が表面化しておらず、それを和らげる方法としてハッピーエンドのパンソリ叙事詩が機能していた[9]。この時代の恨はユーモアと表裏一体を成していたといえる。
併合前後 

1907年に集団として直接的に恨を表現する様子を宣教師のウィリアム・ブレア[注釈 1]がはじめて観察しているが、これは韓国の恨の文化が対外的にはじめて認知された一例である。それは苦痛を伴う告白(悔悟)による忘却の促進と魂の浄化(再生)を担っていた[10]

併合後、日本の同化政策に批判的であった柳宗悦[注釈 2]は当時の底辺階級を文化的に引き上げることを芸術面で目指したが、却って韓国人は文化面における伝統の欠如、自我自主意識の没却[11]に直面することとなった。同化政策の中にあって自己喪失への恐れは独立運動の度重なる失敗と挫折により韓国人の悲しみを伴った自己希求「恨」を更に強く刻む結果になった。以後、メディア[注釈 3]や政権側[12][注釈 4][13][注釈 5]で共通の悲しみを通して連帯を生むため、不平等を受容させるために文化面[14]だけでなく政治的に利用されていくこととなる[15]

不幸な歴史に対する前向きな忘却を果たしていた個人的民衆的「恨の文化」は、忘却を恐れることで劣等感を記憶し相対的剥奪感を受け入れ維持させる集団的なものへと変化し、経済格差や南北分断など恒常的な不安定環境がその表現範囲も複雑化させていった[16]
独立後「現代韓国の恨」 

朝鮮の独立が、民族運動として失敗して弾圧され、自らの力でなく第二次世界大戦の講和交渉として、頭ごなしに連合軍の力によって達成されたことは、後の世代の「恨」となった。また韓国について言えば、独立後の外圧によって成立した李承晩政権の腐敗した独裁政治、朴正煕の鉄拳統治、さらにそれ以後の軍事政権光州事件など、内なる弾圧の歴史も「恨」となっている。それで今日得られなかった勝利の代替物として、あるいは抵抗精神の表れとして、例えばスポーツなどにおける日韓戦に必要以上に熱狂[17]したり、与野党の争いや労働組合の労使紛争において憤りの余り過激な行動をとったりするのである。また、日本(大日本帝国)による併合が「長い抑圧と屈辱の歴史」であったという反日教育の源泉ともなった。

前近代韓国の恨と異なり強力な怒りと結びつく点は、1994年には「火病[18]の原因の一つと見なされたこともある。

宮脇淳子は、「朝鮮半島特有の思考様式。歴代シナ王朝への服従や日本による統治、あるいは李氏朝鮮時代の両班支配など、どうにもならない抑圧屈辱の歴史の中で、自ら不幸を嘆き、自分以外の何かを恨み、それに対する抵抗心をバネにして生きていかざるを得なかった歴史から生まれたと考えられる」と定義している[19]
独立後「現代北朝鮮の恨」 

1972年に北朝鮮で金日成日本への抵抗時代に創作したと主張する文学原作にした映画『花を売る乙女』が上映された。この金日成の文学思想を代表する作品からは、ナショナリズムや「恨」を個人崇拝の道具として利用する様子を垣間みることができる[5]。この映画は、家族悲劇的運命から、「恨」の恨みを晴らすために、朝鮮人を導くのに最もふさわしい存在は誰なのか、という心理的含意へと導いていく[5]権力の頂点に立った金日成は、一連のプロパガンダを通じて、白衣民族の唯一無二のスポークスマンとして自らを全能の民族神へと変身させ、白衣民族血統の純粋性を強調することにより、その血統の純粋性を破壊者から守る守護者という正統性を強調している。ナショナリズムのなかに神話が埋め込まれ、退屈な支配者の空疎な説教だった主体思想は、外的抑圧者に対して「恨」の恨みを晴らすというテーマを強調することにより、特別な生命が吹き込まれた[5]

金明哲は、朝鮮の伝統とは、一言でいえば「恨からいかに解放されるか」という命題であると指摘する[5]。「北朝鮮の指導者は、『恨』を討つ最高指導者でなければならず、したがって、金日成金正日が『恨』との聖戦の最高指導者であることは必然であり、金日成金正日であるならば、朝鮮人は『恨』の恨みを清算することができる」という朝鮮人の社会心理を理解しなければ、金日成金正日が北朝鮮で受け入れられている現実を理解することは難しい[5]

単一民族という民族血統の純粋性を誇る一方、他国に虐げられ続けてきたという歴然たる事実が国民精神の奥底に潜み、果てしない「恨」を生み、朝鮮人の集団的性格となる[5]


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