恐怖政治
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アンラジェ」のクラブや出版物も禁止された。9月には民衆のデモに応えて食糧の価格統制が定められ、同月末には全般的価格統制法が制定され、経済統制が実施されるようになった。10月10日、サン・ジュストが公安委員会を代表して演説し、国民公会は「フランスの臨時政府は、平和が到来するまで、革命的でありつづける」ことを宣言した(革命政府宣言)。王妃アントワネットの処刑(1793.10.16)

10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。粗末な服を着せられ、両手を後ろ手に縛られた彼女は、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。ついで、ジロンド派の粛清が行なわれた。国民公会は3日間しか弁論の期間を与えず、21人のジロンド派全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソーピエール・ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。11月8日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだという。その死を知った夫のジャン=マリー・ロランは自殺した。

さらに天文学者でパリ市長でもあったフイヤン派ジャン・シルヴァン・バイイや三頭派のリーダーであるバルナーヴも処刑された。逃亡中のコンドルセは服毒自殺した。国王ルイ15世の愛妾であったデュ・バリー夫人は金持ちというだけで処刑された。また有名な化学者アントワーヌ・ラヴォアジエは、徴税請負人の仕事もしていたために審理が終わらないまま「共和国は学者を必要としない」という理由で処刑された。ルイ16世の死刑に賛成票を投じた王族のオルレアン公(平等公)が処刑されたのは1793年11月6日のことである。

12月4日、法令により政府の細目が制定される。これにより、公安委員会が外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。

1794年には、ルイ16世の妹であるエリザベート王女、ルイ16世の弁護をつとめたギヨーム=クレティアン・ド・マルゼルブ(英語版)、ラ・ロシュフーコー=リアンクール公爵(ラ・ロシュフーコーの孫)、詩人のアンドレ・シェニエも処刑された。後に皇帝ナポレオン1世の皇后となるジョゼフィーヌの先夫アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵が処刑されたのはテルミドールのクーデタのわずか4日前の7月23日のことである。

革命裁判所が死刑を宣告した数は、1793年9月中旬から10月中旬までに15、次の1ヶ月間には65、翌年の2月中旬から3月中旬には116、3月中旬の1ヶ月では155、4月中旬からの1ヶ月では354にという風に漸次増加していき、それに合わせて裁判手続きは簡素化された。
地方での状況

中央のパリでジャコバン派がイニシアティヴをとった後も、地方では王党派やジロンド派の勢力が残っていた場所があった。革命政府はそれらの地域に対し、中央のパリから派遣議員を送り、反革命派の粛清を図った。これに対する反革命派の抵抗により、フランス全土は内戦状態に陥る。

内戦により、ヴァンデリヨントゥーロンで革命軍による虐殺が起きた。ヴァンデの反乱は1793年末までに、ほぼ鎮圧され、ロワール川を渡りブルターニュを目指した8万人の農民のうち、生き残ったのは僅か4、5千人であった。リヨンでは派遣議員のジョゼフ・フーシェジャン=マリー・コロー・デルボワの指導のもとに教会の略奪が命じられ、叛徒の処刑が4ヶ月にわたり間断なく続けられ、犠牲者は2千人を越えた。トゥーロンでは、陥落後にポール・バラスルイ=マリ・スタニスラ・フレロンの指揮下で1794年1月末までに千人以上の処刑が行なわれた。詳細は「ヴァンデの反乱」、「リヨンの反乱」、および「トゥーロン攻囲戦」を参照
分派闘争

ジャコバン派内では、マクシミリアン・ロベスピエール、もしくはサン・ジュストジョルジュ・クートンを加えた「三頭政治家」へのジョルジュ・ジャック・ダントン派(寛容派)とジャック・ルネ・エベール派の戦いという形で分派闘争が起きる。

1794年1月8日、ロベスピエールは、ジャコバン・クラブで、両派を激しく非難する演説を行なう。

矛先はまずダントン派に向けられた。インド会社の解散に伴う清算における横領が発覚し(インド会社事件)、1794年1月13日、詩人ファーブル・デグランティーヌが逮捕され、外国人から収賄している議員の名前を暴露した。これにより議員や銀行家、投機家が逮捕された。

2月、ロベスピエールは「民衆の革命政府の原動力は徳と恐怖である。徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」という有名な演説を行い、革命政府を擁護する[3]

2月末から3月初め、サン・ジュストが、反革命派の土地を没収し貧困者に無償で配分する、ヴァントーズ法を提案する。これには民衆運動を味方につける狙いがあった。

エベール派は民衆に対して公安委員会に反対して革命的運動をとるよう呼びかけた。3月13日、国民公会でサン・ジュストが「悪徳に対して戦え」と叫んだことから、エベール派の指導者が逮捕された。3月23日、エベール、ロンサン、アントワーヌ=フランソワ・モモロ、ジャン=バプティスト・クローツなどの過激派は、外国人と通謀し、市民を腐敗させる計画を練っていたとして処刑された。

その後、ロベスピエールは盟友のダントンを排除することを決定し、ダントンの腐敗について記したノートをサン・ジュストに手渡した。国民公会でダントンの逮捕が決定され、3月30日にダントンはカミーユ・デムーランらと共に逮捕された。ダントンは法廷で熱弁をふるい検事の論告を押し返したが、発言が停止させられ、彼が退席したまま討論が続けられ、4月4日に死刑判決が出され、翌日執行された。ダントンは首切り役人に「俺の首を人民に見せてやれ。それだけの値打ちはある」と語った。断頭台はダントン派の処刑で血の海となり、首切り役人(死刑執行人)は、言われた通りダントンの首を高々と差し上げて群集に示した。
結果

パリで革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までに、1251人が処刑されたのに対し、審理を経ない略式判決が許された6月11日から7月27日、(テルミドール9日)までの僅か47日間で、パリの断頭台は1376名の血を吸い込んだ。

恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人にのぼるとみられる[要出典]。

恐怖政治は疑心暗鬼の悪循環を生み出し、ロベスピエールらを孤立化させ、テルミドール反動を惹起する。
フランス革命後の恐怖政治
解説

ここでは、フランス革命後の恐怖政治について解説する。

恐怖政治とは、権力者が投獄殺戮 等の苛烈な手段によって反対者を弾圧して行う政治のことである[1]。具体的には人々を弾圧したり脅迫することで恐怖を持たせ、権力者に反対意見を言えなくなるようにすることで自らの権力を維持し、その政策等の貫徹を図ろうとする。広辞苑に「投獄、殺戮等の苛烈な手段」とあるように、権力を握った者が人々を逮捕し投獄させたり、殺害したりすることもある。

一般的に、権力者が自分自身で直接逮捕に出向き、自分の手で監獄に連れてゆくわけではなく、「秘密警察」「官憲」など、権力者の手先となって逮捕・収監を実行するような組織を作り、そこに属する者に実行させる。逮捕や収監は時に法律に基づかず行われる。権力者の意に従わないかもしれないと少しでも思われた者は排除される。逮捕直後に「取調べ」などと称しつつ暴力を振るって殺してしまう事例も多い。逮捕直後に殺さなかった場合でも、収監後に、人々に分からないように殺してしまう。逮捕された人の家族から見ると、家族が傷だらけの遺体で帰ってきて、警察機関の者から「取調べ中に自殺した」などという作り話を聞かされたり、あるいは消息が全く判らなくなるということになる。

恐怖政治を行う権力者はしばしば密告を奨励し、人々を相互監視の状態に追い込む。例え現状の体制への不満を持っていても、恐怖心のあまり発言や行動すら出来なくなる。クーデターなど現体制の破壊を目論む行動は徹底的に弾圧される。
具体例

他方、ロベスピエールと並んで恐怖政治を行ったとしばしば言及される政治家にはオリバー・クロムウェルなどがいる[4][5]ソビエト連邦で恐怖政治を行ったスターリン

20世紀の恐怖政治について解説すると、ロシア革命後のソビエト連邦ヨシフ・スターリンが恐怖政治(大テロル)を行っていた、ということはしばしば指摘されている。スターリンは自らに少しでも反対するような様子を見せたら反革命と見做して粛清した(スターリン体制[6]


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