恋(男女の感情、特定の人に対する感情、特定の人にだけ執着する感情)はキリスト教の伝統では、よろしくないもの、質の低いもの、避けるべきものとして扱われてきた。キリスト教で大切にされたのは、男女の恋などではなく、イエス・キリストによって示された愛、つまり<<神の愛>>(アガペー、神が全ての人類を公平・公正に愛し、見返りを期待しない愛)や、人間が 自分の家族・親族・民族・人種などにこだわらず、広く全ての人々を大切に思う気持ち、広く人々を慈しむ気持ち(兄弟愛・友愛、隣人愛)である。愛は精神生活の基本的感情であり、また倫理学史上もっとも重要な概念の一つとされ、とくにキリスト教の影響を多かれ少なかれ受けている西洋哲学においては、非常に大事な意味をもっている[4]。
イスラーム(ぜんまあい)と信愛(不染汚愛)の区別が説かれる。前者は衆生が解脱しえない根本原因で、十二因縁の一つに数えられる。財欲、名誉欲、色欲などの五欲がそれである。信愛は信心をもって師長を愛するようなもので、貪欲煩悩をはなれて善法を修め衆生を憐愍することである。そのもっともすぐれたものが慈悲とよばれる。
現代の各国の恋愛「キス」(グスタフ・クリムト作)
現代では西洋諸国でも日本でも、文学、演劇、絵画、ドラマ、歌謡曲、漫画などさまざまなジャンルで恋愛が扱われている。 中国では、古くは墨子の兼愛説
東洋における愛
日本思想における愛は、いとおしいという心情で、儒・仏思想の影響もいちじるしいが、特に山川草木、花鳥風月に対する愛情の強い点は特色といってよいであろう[22]。
ヨーロッパとアメリカでは状況が異なるので分けて説明する。 上の節で説明したように、キリスト教では恋愛については厳しい態度をとる考え方を教えており、素直な信徒はその教えを自分のうちに取り込み自分自身の考え方ともするものなので、ヨーロッパ人の恋愛についての見解は、クリスチャンかそうでないか、またクリスチャンだとしても、まじめなクリスチャンか形ばかりのクリスチャンかで、見解は分かれる傾向がある。また恋愛についての教えはカトリックとプロテスタントでも傾向が異なり、プロテスタントのひとつひとつの教派ごとに態度がかなり異なる。 19世紀や20世紀初頭までは西ヨーロッパ諸国ではカトリックの信徒の割合がおおむね9割ほどと、とても高かった。それが20世紀の間に右肩下がりに減り、その結果、恋愛についてカトリックの教えを意識しない人々が増えてきた。たとえばフランスでは1960年では86.6%がカトリックだったが、2013年時点では75.3%にまで低下している[23]。しかも幼児洗礼などを受けて一応カトリックに分類されるが、実際には教会にはほぼ全く行かず神父の説教も聞かず聖書も読まず、カトリックの考え方をほぼ知らず、それから離れた生き方をしている人の割合も増えてきている。そうした人々はカトリックの教えに縛られないで恋愛について比較的自由に考えるようになっている。フランス人は基本的には各人の選択を重んじるので、カトリックから離れた場合は、たとえば、恋愛に興味がある人は恋愛すればよいし興味が無い人はしなければよい、などと考えるわけである。 恋愛と一緒に暮らすこと(同棲)は別のこと、と考えるか、それらを結びつけて考えるかは、ヨーロッパでも国ごとにかなり異なる。スペインでは20歳以上で結婚していない人が同棲している割合は8.8 %である[24]。それに対して、ポーランドやギリシャでは、同じタイプの人々で同棲している人の割合は、スペインの1/4しかいない[24]。一方(性的におおらかなことで有名な)スウェーデンでは結婚したカップルの99%がその前に同棲を経験している、という。このようにヨーロッパ内でも国ごとにずいぶんと異なっている。 なおフランスでは恋愛して同棲するとしても、同棲と結婚は切り離して考える人々が増えてきている。フランスでは、そもそも古くからある「結婚」という制度は、男女の間でのお金や財産の移動に関する規定をともなう(女が男の収入をあてにして寄生するような)制度だと、その本質を見抜き、それを嫌う人々の割合が増えてきており、男女が本当に純粋に愛し合うならそんな制度の枠内に入るべきではない、と考え、男女が長年一緒に暮らす場合でも PACSという枠組みを選び、お金はそれぞれ別という方式を積極的に選び、「結婚」という形は断固としてとらない、という人々の割合がすでに5割を超えた。ここ数十年のフランス人は、そういう「金目当て」のような不純なことが相当に嫌いであり、そういうものは抜きでいたい、と男性も女性も望んでいる。特筆すべきことは、金目当ての動機が織り込まれた不純な「結婚」という制度を、女性の側から積極的に断固拒否している、ということである。
西洋における恋愛
ヨーロッパ