[11]スピノーザによると、すべてのものは<<自己保存の努力>> conatus
コナトゥスをもち、人間は心身をより大なる完全性へ移すこと、すなわち喜びを欲望し、悲しみをさけ、喜びを与える外物を愛し、悲しみを与える外物を憎む。かれは欲望、喜び、悲しみという三つの根本感情から幾何学的にさまざまな愛と憎しみを分析する。ところでわれわれの精神が事物を永遠の相の下に、すなわち必然的連関において認識することは、精神をより完全にする喜びであり、そしてこの十全な認識は事物を神(=自然=実体)の様態として認識することであるから、その喜びは外部の原因としての神の観念をともない、神への愛である。それは神を認識することと一つになっているから「神の知的愛」amor Dei intellectualisとよんだ。カントは、傾向性にもとづくpathologisch(感性的な)愛と理性的意志にもとづくpraktisch(実践的な)愛とを区別し、後者のみが道徳的とした。傾向性としての愛を命ずるわけにはいかないから、隣人への愛とは、隣人に対するすべての義務をすすんで遂行すること。そして道徳法則への尊敬が、それへの愛に変わるのが道徳的心術の最高の完成であろうとした。
ヘーゲル
ヘーゲルは、精神の統一性がそれ自身を感じているのが愛であるとする。愛は一般に、私と他人との統一の意識。愛において私は私だけで孤立せず、むしろ私の孤立的存在を放棄し、自他の統一としてみずからを知ることによってのみ、自己意識をうる愛の第一の契機は私が私だけの独立人たるを欲せず、そういう私を欠陥あり不完全なものと観ずるということ、第二の契機は私が他において自分をかちうること、すなわち私が他者に認められ同じく他者が私においてかれ自身をうるということ。したがって愛は悟性の解きえないもっとも著しい矛盾である。矛盾の産出であり同時にその解除でもある。解除として愛は人倫的結合であるという。
ショーペンハウアー
ショーペンハウアーは、あらゆる形式の愛が生への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で、愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているものであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。
このショーペンハウアーの性愛論には、精神分析学者フロイトの理論内容を先取りしている部分が数多くある点興味深い。フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。たとえばD.H.ロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。
サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。 ユダヤ人の間では、恋愛は行ってもよいが恋人同士で積極的に意見を交換することを教え、恋愛にのめり込み過ぎることは破滅を意味するとタルムードで教えている[12]。 アブラハム・カイパーは『カルヴィニズム』で「自由恋愛が結婚の神聖を乱そうとし」ていると述べるように[13]、恋愛について否定的な見解がある。恋愛が「ある種の威厳を持ち、恋人に対する全面的献身・・を要求して、神のように語る」ので「神に従わせなければ、それ自体が絶対的な服従を求めてきて、悪魔化し、偶像化」する危険があるとキリスト者学生会の高木実主事は指摘し、C.S.ルイスの『四つの愛』を引用している[14]。またC.S.ルイスは『悪魔の手紙 恋(男女の感情、特定の人に対する感情、特定の人にだけ執着する感情)はキリスト教の伝統では、よろしくないもの、質の低いもの、避けるべきものとして扱われてきた。キリスト教で大切にされたのは、男女の恋などではなく、イエス・キリストによって示された愛、つまり<<神の愛>>(アガペー、神が全ての人類を公平・公正に愛し、見返りを期待しない愛)や、人間が 自分の家族・親族・民族・人種などにこだわらず、広く全ての人々を大切に思う気持ち、広く人々を慈しむ気持ち(兄弟愛・友愛、隣人愛)である。愛は精神生活の基本的感情であり、また倫理学史上もっとも重要な概念の一つとされ、とくにキリスト教の影響を多かれ少なかれ受けている西洋哲学においては、非常に大事な意味をもっている[4]。
宗教と恋愛
ユダヤ教
キリスト教
イスラーム(ぜんまあい)と信愛
現代の各国の恋愛「キス」(グスタフ・クリムト作)
現代では西洋諸国でも日本でも、文学、演劇、絵画、ドラマ、歌謡曲、漫画などさまざまなジャンルで恋愛が扱われている。 中国では、古くは墨子の兼愛説
東洋における愛
日本思想における愛は、いとおしいという心情で、儒・仏思想の影響もいちじるしいが、特に山川草木、花鳥風月に対する愛情の強い点は特色といってよいであろう[22]。
ヨーロッパとアメリカでは状況が異なるので分けて説明する。 上の節で説明したように、キリスト教では恋愛については厳しい態度をとる考え方を教えており、素直な信徒はその教えを自分のうちに取り込み自分自身の考え方ともするものなので、ヨーロッパ人の恋愛についての見解は、クリスチャンかそうでないか、またクリスチャンだとしても、まじめなクリスチャンか形ばかりのクリスチャンかで、見解は分かれる傾向がある。また恋愛についての教えはカトリックとプロテスタントでも傾向が異なり、プロテスタントのひとつひとつの教派ごとに態度がかなり異なる。 19世紀や20世紀初頭までは西ヨーロッパ諸国ではカトリックの信徒の割合がおおむね9割ほどと、とても高かった。それが20世紀の間に右肩下がりに減り、その結果、恋愛についてカトリックの教えを意識しない人々が増えてきた。たとえばフランスでは1960年では86.6%がカトリックだったが、2013年時点では75.3%にまで低下している[23]。しかも幼児洗礼などを受けて一応カトリックに分類されるが、実際には教会にはほぼ全く行かず神父の説教も聞かず聖書も読まず、カトリックの考え方をほぼ知らず、それから離れた生き方をしている人の割合も増えてきている。そうした人々はカトリックの教えに縛られないで恋愛について比較的自由に考えるようになっている。フランス人は基本的には各人の選択を重んじるので、カトリックから離れた場合は、たとえば、恋愛に興味がある人は恋愛すればよいし興味が無い人はしなければよい、などと考えるわけである。 恋愛と一緒に暮らすこと(同棲)は別のこと、と考えるか、それらを結びつけて考えるかは、ヨーロッパでも国ごとにかなり異なる。スペインでは20歳以上で結婚していない人が同棲している割合は8.8 %である[24]。それに対して、ポーランドやギリシャでは、同じタイプの人々で同棲している人の割合は、スペインの1/4しかいない[24]。一方(性的におおらかなことで有名な)スウェーデンでは結婚したカップルの99%がその前に同棲を経験している、という。このようにヨーロッパ内でも国ごとにずいぶんと異なっている。 なおフランスでは恋愛して同棲するとしても、同棲と結婚は切り離して考える人々が増えてきている。フランスでは、そもそも古くからある「結婚」という制度は、男女の間でのお金や財産の移動に関する規定をともなう(女が男の収入をあてにして寄生するような)制度だと、その本質を見抜き、それを嫌う人々の割合が増えてきており、男女が本当に純粋に愛し合うならそんな制度の枠内に入るべきではない、と考え、男女が長年一緒に暮らす場合でも PACSという枠組みを選び、お金はそれぞれ別という方式を積極的に選び、「結婚」という形は断固としてとらない、という人々の割合がすでに5割を超えた。
西洋における恋愛
ヨーロッパ