恋愛
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すなわち神の愛隣人愛がそれである。神の愛、つまり神を直接の目的として恩寵によって与えられる愛は愛徳ch?rit?sカリタスとよばれ、スコラ哲学でいう精神的愛amor intellectivus、慈善的愛amor benevolenceのうちで最上のものとされている[4]
中世?近代の文学作品での恋愛薔薇物語』写本 (1420-30)、愛の神のロンド

中世フランスに起源が見られる騎士道物語においてはロマンス的愛(=ローマ風の愛。「ローマ風」とは「ラテン風」が正式なものとされるに対して「民衆的・世俗的な」という語感をもつ)が生まれ、キリスト教的愛(=アガペー。神が示す無償の愛)とは異なるもの、異風なものとして叙述されはじめた。

13世紀中世フランスにおいてギヨーム・ド・ロリス(フランス語版)とジャン・ド・マン(フランス語版)によって書かれた『薔薇物語』は恋愛作法の書として多数の写本が作られ、当時 貴婦人たちの間で大きな影響力を持っていた。

中世ドイツでは、今日一般的な恋愛関係による婚姻(恋愛婚)は9世紀教会により非合法とされたので婚姻において氏や家が重要であった(ジッペムント参照)。命を絶つことになったロミオとジュリエット

イギリスでは16世紀にシェイクスピア1564年 - 1616年)が『ロミオとジュリエット』において、家同士の争いに引き裂かれる恋人たち、悲劇的な恋愛を描いてみせた(1595年前後初演)。不朽の名作として、バレエミュージカル映画など様々なジャンルにリメイクされている。

17世紀後半のイギリス、すなわちシェイクスピア直後の時代には、現代用いられる「身体を否定する精神だけの愛」という意味でのプラトニックラブという表現が現れたらしい[7]シラノはロクサーヌへの恋心を隠し続けた。(『シラノ・ド・ベルジュラック』)

19世紀末期のフランスで、エドモン・ロスタンが戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を書き、ロクサーヌという女性に恋心を抱いているにもかかわらず自分の気持ちを面と向かって伝えることができず、恋心を隠し通し、自分の恋を成就させるかわりに若くて美男子(だが見てくればかりで、頭が悪く、才能が無い)クリスチャンとロクサーヌとの恋をとりもってやる シラノという中年男の「忍ぶ恋」「切ない恋」を描いてみせた(1897年初演)。この戯曲はパリの人々を大熱狂させたといい、1897年の初演から500日間400回連続上演され、その後も今日にいたるまで世界中で上演されつづけており、映画やミュージカルに幾度もリメイクされ見続けられている。
スタンダールの『恋愛論』

スタンダール1783年 - 1842年)は『恋愛論』において、恋愛には4種類ある、とした。情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛である[8]。どんなに干からびた不幸な性格の男でも、十六歳にもなれば(肉体的恋愛から)恋愛を始める。また恋は心のなかで、感嘆、自問、希望、恋の発生、第一の結晶作用、疑惑、第二の結晶作用という7階梯をたどる、とした[9]。あらゆる恋愛は6つの気質に起因し、多血質(フランス人)、胆汁質(スペイン人)、憂鬱質(ドイツ人)、粘液質(オランダ人)、神経質、力士質の、それぞれの影響が恋愛の諸相に関与する、とした[10]
近世哲学における愛
スピノザ

[11]スピノーザによると、すべてのものは<<自己保存の努力>> conatus コナトゥスをもち、人間は心身をより大なる完全性へ移すこと、すなわち喜びを欲望し、悲しみをさけ、喜びを与える外物を愛し、悲しみを与える外物を憎む。かれは欲望喜び悲しみという三つの根本感情から幾何学的にさまざまな愛と憎しみを分析する。ところでわれわれの精神が事物を永遠の相の下に、すなわち必然的連関において認識することは、精神をより完全にする喜びであり、そしてこの十全な認識は事物を(=自然=実体)の様態として認識することであるから、その喜びは外部の原因としての神の観念をともない、神への愛である。それは神を認識することと一つになっているから「神の知的愛」amor Dei intellectualisとよんだ。
カント

カントは、傾向性にもとづくpathologisch(感性的な)愛と理性的意志にもとづくpraktisch(実践的な)愛とを区別し、後者のみが道徳的とした。傾向性としての愛を命ずるわけにはいかないから、隣人への愛とは、隣人に対するすべての義務をすすんで遂行すること。そして道徳法則への尊敬が、それへの愛に変わるのが道徳的心術の最高の完成であろうとした。
ヘーゲル

ヘーゲルは、精神の統一性がそれ自身を感じているのが愛であるとする。愛は一般に、私と他人との統一の意識。愛において私は私だけで孤立せず、むしろ私の孤立的存在を放棄し、自他の統一としてみずからを知ることによってのみ、自己意識をうる愛の第一の契機は私が私だけの独立人たるを欲せず、そういう私を欠陥あり不完全なものと観ずるということ、第二の契機は私が他において自分をかちうること、すなわち私が他者に認められ同じく他者が私においてかれ自身をうるということ。したがって愛は悟性の解きえないもっとも著しい矛盾である。矛盾の産出であり同時にその解除でもある。解除として愛は人倫的結合であるという。
ショーペンハウアー

ショーペンハウアーは、あらゆる形式の愛が生への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で、愛を断罪する。しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているものであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。


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