1955年に、プロデューサーのエドモンド・ゴールドマンは国際東宝(ロサンゼルスに拠点を置く東宝の海外配給部門)との間で『ゴジラ』の権利交渉を始めた。ゴールドマンは東宝から渡された『ゴジラ』の宣伝資料を見て興味を持ち、『ゴジラ』の上映会に参加してライセンス料2万5,000ドルの条件を提示し、東宝は即断で条件を受け入れた[18][19]。1955年9月27日に契約を交わし、この契約ではゴールドマンと東宝は海外版『ゴジラ』が「ナレーション、英語吹き替え、映像の追加・修正・削除を経て完成する」ことで合意し[19]、東宝が最終的に承認することになっていた[20]。
『ゴジラ』の権利交渉にはポール・シュライブマンも協力していた[21]。また、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズのサミュエル・Z・アーコフも独自に東宝と権利交渉を3か月間行っていたが、後にゴールドマンが権利を取得したことを知った[18]。ゴールドマンはジュエル・エンタープライズのハロルド・ロス(ヘンリー・リブニックとも表記される)、リチャード・ケイ(英語版)の協力でアメリカ配給にこぎ着けたが、ゴールドマンによれば英語吹替とレイモンド・バーを起用するように勧めたのは、ロスとケイの意見だったという。その後、ゴールドマンはジュエル・エンタープライズに権利を売却することになった[18][19]。
ロスとケイは資金調達のため、ジョーゼフ・E・レヴィーンに協力を依頼するとロサンゼルスで彼を招いて上映会を実施し、『ゴジラ』の可能性に興奮したレヴィーンは映画の権利の半分を10万ドルで購入した。これにより、『ゴジラ』の権利はジュエル・エンタープライズとエンバシー・ピクチャーズ(英語版)が所有することになった[19]。レヴィーンはエドワード・バリソンの協力を得て、配給会社トランス・ワールド・リリーシングを設立した。また、テリー・ターナーにプロモーション戦略を依頼したが、報酬として40万ドルを要求された[18][22]。依頼を引き受けたターナーは、『ザ・トゥナイト・ショー』でスティーヴ・アレン(英語版)に『ゴジラ』を紹介させた。『ゴジラ』の海外版タイトルについて、レヴィーンとターナーは当初「Godzilla, the Sea Beast」を検討していたが、最終的に「Godzilla, King of the Monsters!」に決定した[21]。レヴィーンとターナーはテリー・O・モース(英語版)を監督に起用し、シュライブマンは新たなキャストとしてバーを起用した。モースは脚本の修正作業[注釈 2]と監督、バーは1日のみの撮影でそれぞれ1万ドルの報酬を受け取っている[14]。
撮影と吹替.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}レイモンド・バージェームズ・ホン
当時のアメリカでは海外映画が一般受けしなかったことから、観客受けを狙うためにバーが1日のみで撮影を終えた後、芹沢や山根、恵美子のボディダブルと会話するシーンが新たに追加撮影された[出典 3]。モースは日本版のオリジナルカットと英訳した脚本を確認しながら、バーの登場シーンを挿入できる部分を探した[24]。また、吹き替え作業では発音などの関係から主要出演者の英語吹き替えは東洋人のサミー・トンやジェームズ・ホンなどが行い[19]、日本語の台詞の大半を残すことに決め、フランク岩永に不正確ながら翻訳してもらい、バーのナレーションシーンと交互に映すことにした。バーが演じるスティーブ・マーティンが山根博士と会話するシーンでは、山根博士役のボディダブルは顔を隠すため、カメラに背中を見せる構図で撮影を行っている[13]。芹沢のシーンでは、眼帯側を主に映している[8]。また、編集作業を通してボディダブルや日本人俳優が映らないようにし、端役にはアジア系アメリカ人が起用された[注釈 3]。追加シーンの撮影はヴィジュアル・ドラマ社の撮影セットで3日間かけて行われた[14]が、バーは1日分の契約しか交わしていなかったため、彼の出演シーンは24時間以内にすべて撮影された[25]。セット・デコレーター(英語版)のジョージ・ロアーズは、オリジナル版のシーンを模した実物大セットを撮影のために製作している[26]。オリジナル版にあった長崎市への原子爆弾投下、ビキニ環礁の水爆実験、原爆実験によるマグロの放射能汚染などの原爆・水爆に関する要素は、すべてカットされた[27]。