急進派共和党
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その中にはレコンストラクション法や強制法が含まれており、南部のために選挙法を書き換え、黒人の投票を認め、アメリカ連合国を支持した指導的白人の大半から役職に就く権利を奪っていた。1867年から1868年の選挙の結果として、新しく権利を得た解放奴隷、カーペットバッガー(南部に移ったばかりの北部人)やスキャラワグ(レコンストラクションを支持した南部人)と連衡し、バージニア州を除く南部の10州で共和党政府を樹立した。新しい州政府を支援するために軍隊を派遣したワシントンの急進派に支援された。
弾劾

急進派はジョンソンを大統領職から追い落とそうとしたが、初めての弾劾はうまくいかなかった。ジョンソンが陸軍長官エドウィン・スタントンを解任することで役職者任期法に違背するとされ、下院はジョンソンを弾劾裁判にかける決議を行った。しかし上院での決議では1票差で弾劾を免れた。しかしその権限の大半は失われた[10]
グラントの支持

ユリシーズ・グラント将軍は、ジョンソン大統領の下で1865年から1868年まで陸軍を指揮したが、概して急進派の綱領を推進していた。議会の急進派指導者は、下院のタデウス・スティーブンスであり、上院のチャールズ・サムナーだった。1868年アメリカ合衆国大統領選挙でグラントは共和党員として当選した。選挙後は概してレコンストラクション政策で急進派に就き、1871年の公民権法に署名して法制化した[11]

1872年アメリカ合衆国大統領選挙で共和党は分裂し、グラントの再選を求める派と、サムナーを含めたリベラル派共和党に分かれた。リベラル派は新しく第3政党を作り、グラントに対抗した。選挙でリベラル派は大敗したが、1873年当時の経済は不況に陥っており、1874年には民主党が権力の座に戻って、共和党支配の時代を終わらせた[3]

急進派は新しい連衡を守ろうとしたが、南部州は1つずつ共和党から権力を奪い、1876年になると、まだ軍隊が守っていたルイジアナ州フロリダ州サウスカロライナ州の3州を残すのみとなった。1876年アメリカ合衆国大統領選挙は大変な接戦となり、二大政党の双方に大量の不正や違法行為があったが、それら3州の結果で決まった。1877年妥協は共和党員を大統領として選ぶ代わりに、軍隊の引き揚げを認めた。当選したラザフォード・ヘイズ大統領が軍隊を引き揚げさせ、共和党による南部州支配は即座に崩壊した[12]
南部のレコンストラクションタデウス・スティーブンス下院議員チャールズ・サムナー上院議員

レコンストラクション時代に、サムナーとスティーブンスに率いられた急進派共和党が次第に支配権を強めて行った。彼らは南部に対して厳しい対応を要求し、解放奴隷を強く保護し、アメリカ連合国のナショナリズムを完全に排除するように保証を求めた。1865年にリンカーンが暗殺された後、元タカ派民主党員だったアンドリュー・ジョンソンが大統領になった。

急進派は当初ジョンソンの強硬な話し振りを称賛した。1866年公民権法という重要法案にジョンソンが拒否権を使ったことで、ジョンソンに躊躇いがあることを見つけた急進派は、その拒否権を差し戻した。これは重要法案で大統領の拒否権を議会が差し戻した最初の機会になった。この公民権法は、アフリカ系アメリカ人をアメリカ市民とし、彼らに対する差別を禁じていた。それは連邦裁判所で裏付けられることになった。1868年に批准されたアメリカ合衆国憲法修正第14条とその平等権保護条項は、共和党の中道派と急進派が連衡して成立した[8]

1866年までに急進派共和党は解放奴隷の公民権を支持し、ジョンソンがそれに反対した。1867年までに解放奴隷に対する選挙権の条件を確定し、元アメリカ連合国支持者の多くには選挙権を制限した。ジョンソンは急進派共和党に対して幾つかの問題で反対したが、1866年の議会選挙で急進派が大勝し、ジョンソンが拒否権を使ったとしても、それを差し戻して法制化できるだけの勢力になった。南部での選挙を通じて、元アメリカ連合国の役人が、次第に解放奴隷、カーペットバッガー(南部に移ったばかりの北部人)やスキャラワグ(レコンストラクションを支持した南部人)の連衡に取って代わるようになった。急進派共和党は下院でアンドリュー・ジョンソン大統領を弾劾したが、上院では1票差で否決され、ジョンソンを大統領から追うことができなかった[8]グラントのルイジアナ州における最後の怒り。
フランク・レスリーの挿絵入り新聞。国はレコンストラクションに飽きており、グラントはアフリカ系アメリカ人の公民権を守る寂しい大統領になっていた。
1875年1月23日版

急進派共和党は南部のレコンストラクションを指導した。1868年には共和党の全会派がユリシーズ・グラントを大統領に当選させた。グラントは就任すると、サムナーに党から出て行かせた。グラントは連邦政府の権限でクー・クラックス・クランを解体させようとした。しかし暴動や民衆の騒擾でアフリカ系アメリカ人とその同盟者に対する嫌がらせや暴力行為が続き、20世紀初期にまで続いた。1872年までに共和党リベラル派はレコンストラクションが成功したのでそれを終わらせるべきだと考えるようになった。中道派の多くがこれに加わり、また元急進派の指導者だったチャールズ・サムナーも加わった。しかし、1872年の選挙では大敗して、グラントが容易に再選された[13]

南部の州では次から次に、リディーマー運動が共和党から支配権を奪い、1876年には、サウスカロライナ州、フロリダ州、ルイジアナ州の3州のみが共和党支配という状態になった。この年の共和党大統領候補ラザフォード・ヘイズは、これらの州が解放奴隷の権利を尊重すると約束する限り、「自治権」を回復させると発表した。1877年にヘイズが大統領になると、連邦軍を撤退させたので、これらの州もリディーマーが主導権を取った。

1872年リベラル派共和党と民主党は、急進派共和党が(特にグランド政権で)賄賂を受け取ることで腐敗していると論じた。これら急進派の対抗者は元アメリカ連合国の支持者全てに選挙権を回復し公職に就けるようにする恩赦を要求した。歴史家エリック・フォナーのレコンストラクション史では、時として財政的なごまかしが、賄賂として強要するのと同じくらい問題になったと指摘した。1872年までに急進派は次第に分裂するようになっていた。1874年の連邦議会選挙で、反急進派の民主党が議会を支配した。元急進派の多くが共和党のストールワート派(保守派)に加わり、多くの対抗者はハーフブリード派(中道派)に加わったが、彼らは政策よりも主に利益供与のあり方で異なっていた[14]
歴史的な評価

南北戦争とレコンストラクションの後で、歴史的な出来事の記憶と意味を作り上げることに新たな戦いが起こった。レコンストラクションとそれに参加した急進派共和党に関する研究を行った初期歴史家は、ウィリアム・アーチボルド・ダニング(英語版)とジョン・ウィリアム・バージェスが率いたダニング学派のメンバーだった[15]。ダニング学派は、20世紀初期のコロンビア大学を本拠にし、国民的な和解とアメリカ連合国に対する不合理な憎しみという犠牲において、急進派は権力への欲望に突き動かされていたと考えた[15]。ダニング学派の歴史家達に拠れば、急進派共和党は、エイブラハム・リンカーンやアンドリュー・ジョンソンが南部を再統合させたことで得た得失を反転させ、北部のカーペットバッガーと、元アメリカ連合国州の南部スキャラワグからなる腐敗の影をもった政府を作り上げ、その支持基盤を高めるために、解放奴隷に準備ができておらず使い道の分からない政治権を押し付けたとしていた[16]。ダニング学派にとって、急進派共和党がレコンストラクションを暗黒の時代にし、南部の白人が立ち上がって、北部、共和党、黒人の影響が無い「自治ルール」を作ったときにやっと終わったというものである[17]。解放奴隷を評価したW・E・B・デュボイスのような幾らかの歴史家の努力にも拘わらず、レコンストラクションに関するダニング学派の否定的見解とアフリカ系アメリカ人の選挙権に対する反対は、その後長い間の歴史観に影響を与えた[18]。1930年代、左翼歴史家が階級闘争を強調する経済観でこの時代を再評価しようとした。彼らも急進派には敵対的であり、南部に北部の資本主義を押し付けることで、南部を支配しようとした経済的楽観主義者だと位置づけた[19]

南部で公共教育体系、慈善制度など社会インフラを創設した急進派共和党の役割は、ダニング学派の歴史家たちに評価されていない。1950年代から、公民権運動や「ブラックパワー」運動の道徳的側面の衝撃によって、歴史家達はレコンストラクション時代の急進派共和党の役割を再評価するようになった。その評価は改善された[20]。これら歴史家達は19世紀の奴隷制度廃止運動家の価値を再評価し称賛したので、新奴隷制度廃止運動家と呼ばれることもある。彼らは急進派共和党が奴隷解放に続いてアフリカ系アメリカ人の公民権と参政権付与を推進したことが、その後に起こった財政的腐敗よりも重要だと論じた。彼らはまた、アフリカ系アメリカ人が教育を受けることに向けた中心的かつ積極的役割(個人的にも公共教育を作ることによっても)と、自立する手段として土地を得たいという願望があったことを指摘した[21]

歴史家達は、共和党の大半、それが極端な奴隷制度廃止運動家であっても、1868年以後は解放奴隷の運命に関わる関心を何故無くしたのか、長い間疑問に思ってきた。ヒーサー・リチャードソンは、北部の急進派共和党は、1870年のパリ・コミューンに倣って、あるいは1870年代に多発したアメリカの暴力的ストライキのように、黒人が急進的労働者になるかもしれないので、経済に対して危険な者になる可能性があると見るようになったと論じている(2004年)。


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