忠州の戦い
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^ 『象村集』によると申?の兵は数千[4]。李鎰の軍勢については、尚州の戦いの前に4,060とあるが、敗北後の敗残兵の数は記載ない。これは『宣祖修正實録』にある6,000の記載が『象村集』にはない[5]
^ 『懲録』には忠清道郡県兵8,000名とあるのみ[6]
^ 『小西一行記』では、申?が漢城から率いてきたのが兵37,500で、京畿道からの指令で先に忠清道に集ったのが兵12500とされる。(ただしこの書籍は小西行長を主人公とする軍記物である。)
^ 『乱中雑録』ではこのうち申?が率いる精兵は2,000だけで、一族が100、すべて合わせて6万とする[8][9]
^ a b太閤記 巻13 忠州城之事』では「軍勢六七万」。ただし太閤記では戦いの内容が全く異なり、朝鮮軍が籠城して戦ったことになっている。
^ 『宣祖実録』によると精兵10万人と云い、これが完敗したとある[11]。また、壮士3,000人が一日で集まったという記述もある[12][13]
^ a b ルイス・フロイスの『日本史』では、そもそも朝鮮軍は8万であるとされ、戦いでも小西行長の日本軍が少数である事を見て、三日月型の陣形を敷き、包囲しようとしてきたように書かれていて、内容や状況がかなり異なる。朝鮮側の死傷者の数も8,000人以上とされたが、それは1割に過ぎない。
^ 前述のように宣祖修正実録の同じ日の記述に 柳成龍が集めた壮士の8,000人を申?らは率いて漢城から出陣していった。[15][1]
^ 前義州牧使であるが、党派争いに連座して逮捕され、その職を追われた。しかし優秀で勇敢であるというので、倭乱が起きた際に再雇用され、副使となった。献言が無視されて次のいくさは必敗であると考えた金汝?は、子供に一筆残して死を覚悟してこの一戦に臨んだ。
^ 北方の蛮族、遊牧民をのこと意味し、ここでは女真族を指す。
^ 別の宣教師が記した『日本西教史』でも、朝鮮の騎兵や湾月形の陣形などが登場するが、こちらは加藤清正と小西行長の争いによって、足を引っ張られたという内容になっている[22]
^ 総兵官の略で、将軍または大将の意味。

出典^ a b c 臺諫啓請:“宜使大臣爲體察使, 檢督諸將。” 李山海請遣柳成龍, 從之。 金應南爲副使。 成龍問策於申?, ?曰: “李鎰以孤軍南下, 而無後繼。 體察使雖下去, 非戰將, 宜使武將星馳先往, 爲鎰後繼。” 成龍乃與應南請對, 請先遣申?。 上召問?, ?亦不辭, 遂以爲都巡邊使。 成龍?以所募壯士八千人, 屬?行。 將發, 上引見?, 賜寶劍曰: “李鎰以下不用命者, 皆斬之。” 時, 上以金汝?才勇可惜, 命於防禦緊要處定配, 立功自效。 汝?出獄, 成龍召與計事大奇之, 啓曰: “臣今始見汝?論兵事, 不但武勇、才略過人, 請置幕中, 資其籌策。” 上許之。 ?又請: “臣曾鎭西路, 知汝?非但才勇, 乃忠義之士。 請付臣先行。” 上又從之。?又請: “臣曾鎭西路, 知汝?非但才勇, 乃忠義之士。 請付臣先行。” 上又從之。 ? 宣祖修正實録 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬暦 20年) 4月 14日(癸卯) 6
^ ?所將, 都中武士、材官, 竝外司庶流、閑良人能射者數千人。 令朝官各出戰馬一匹助之行, 收旁邑兵, 僅八千人。 ? 宣祖修正實録26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬暦 20年) 4月 14日(癸卯) 6
^ 吉願自出招集, 乃達夜搜索村落間, 得數百人, 皆農民也。 鎰又發倉廩, 誘募散民, 得數百人, 倉卒?伍, 合兵僅六千餘人 ? 宣修 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬暦 20年) 4月 14日(癸卯)
^ 申?は丹月驛に数千人で陣をしいた ⇒[1]。又以申?爲都巡邊使。益發都中武士材官。?抄三醫司閑良人能射者皆屬焉。令朝官各出戰馬一匹以助之。發武庫軍器以資之。發武庫軍器以資之。時?諸道兵未至。?驟往。只將傍邑兵。四月二十六日至忠州。兵纔數千人。陣於丹月驛傍岸。 ? 象村集稿卷之三十八 諸將士難初陷敗志
^ 巡邊使李鎰之出師。只率軍官及射手六十餘人。行收兵得四千餘人。四月二十四日至?州。鎰以士卒烏合。當習陣以待之。布陣未半。賊猝至。因與對陣。未及交鋒。賊先放砲。鐵丸雨下。我軍不能抵敵。賊大呼陷陣。我師犇潰。死者相枕籍。鎰單騎?身走。從事官尹暹,朴?皆沒。朝廷?遣李鎰。未久邊報日急。云賊已迫?地。將踰鳥嶺。都人洶洶。荷擔而立。 ? 象村集稿卷之三十八 諸將士難初陷敗志
^ ?至忠州, 忠C道郡縣兵來會者八千餘人 ? 懲録
^ a b 『西征日記』より
^乱中雑録,壬辰上萬暦二十年。宣祖二十五年
^ 申?盡率諸道精兵及武官二千,宗族百餘員,?侍衛卒?六萬餘兵。自鳥嶺還退忠州。 ? 乱中雑録, 壬辰上 萬暦二十年。宣祖二十五年
^ 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇U 『暴君』秀吉の野望」第38章
^ a b 變初, 以申?爲都巡察使, 領大軍, 禦賊于鳥嶺。
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