応永の外寇
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朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した[7][8][5]。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であった[9]が結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。
背景
前期倭冦

高麗史と日本側の記録によると、倭寇元寇以前にも存在して高麗から財産を略奪したが[10]その活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった[11]。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという[12]。「高麗史」、「高麗史節要」に拠れば、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出したという[13]康応の外寇)。

高麗が朝鮮に代わった後にも倭寇は朝鮮半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、室町幕府将軍足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事によって、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。

しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
朝鮮側の記録

ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。西暦日付はユリウス暦で示す。
対馬侵攻の決定

朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが[14]、応永26年5月7日(1419年5月31日)、対馬での飢饉によって数千人の倭寇が明の浙江省に向かっていた途中、食糧不足で朝鮮の庇仁県(今の韓国忠清南道舒川郡)を襲撃し[15]、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した[16]。この倭寇は5月12日6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し[17]、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した[18]。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬と壱岐からの倭寇ということを知り[19]5月14日6月7日)、対馬遠征を決定。国王・世宗に出征を命じた。

朝鮮側は5月23日6月16日)に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え[20]5月29日6月22日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した[21]。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。

対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17,285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた[22]

朝鮮軍司令部の構成は次の通りであった[23]

三軍都體察使:李従茂

中軍節制使:禹博・李叔畝・黄象

左軍都節制使:柳湿

左軍節制使:朴礎・朴実

右軍都節制使:李之実

右軍節制使:金乙和・李順蒙

太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ盗賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じた[24]
糠岳での戦闘

6月19日7月11日)、朝鮮軍は巨済島を出航した[25]

6月20日7月12日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。対馬の盗賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した[26]。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れて険阻な場所へ走り込む[27][28]。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、宗貞盛に送った。だが答えがないと[29]、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした[30]


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