応永の外寇
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

このような楽観的とも言える宣旨がなされたのは、この時点では朝鮮軍が敗北したとの報告が太宗には届いていなかったためであった[41]。また、宗貞盛からも「朝鮮軍が長期間留まることを恐れるため、修好と撤退を願う。7月は暴風が吹くため大軍が留まるのは(朝鮮側にとっても)良いことではない」との文書が送られた[42]7月3日、軍船は対馬から巨済島に撤退した[43]
損害

『世宗実録』では6月29日の戦いで死者百数十人[44]7月10日8月1日)の記録として戦亡者180人となっている[5]。朝鮮側は戦没した朝鮮軍の遺族全員に米と豆を支給した[45]。対馬側の被害は正確には知られてないが、朝鮮の史料によると対馬の人命被害は200人に近く、対馬の糠岳には殿様壇という墓があり、戦死した対馬の守護宗貞茂の墓と伝えられているが、実際貞茂は前年に病死しており、誰の墓かは判明していない。
撤収後の影響

糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に帰らせて我が国の弱点を見せることはできない」という左議政(高位官吏)の主張があった[46]。そのため、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「戦死者、倭人20人余り、朝鮮人100人余り」と朝鮮側の被害を多く言った。これについて、崔雲等が「中国は北方民族との戦いで、遠征軍の兵士たちの過半数を失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と主張し、太宗がこれに賛同し、中国人たちを明国へ帰すこととなった[47]。朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂も朝鮮の大臣たちの非難を受けたが、朴実の敗戦の罪は司令官の皆にあるとし、東征(対馬遠征)にとって勝利も多かったとして[48]、後に朴実は免罪、李従茂は昇進する事になった。対馬遠征で功績があると官職を受けた朝鮮人は200人余りであった[49]。また対馬については、「我が族類にあらず(島倭非我族類)」と前言を翻し、さらに朝鮮の京中・慶尚及び全羅道にいた対馬人を僻地に移転させることを決定[50]した。
対馬再征計画

7月9日7月31日)に、対馬へ向けて出港し再攻撃することが提案されたが、兵の士気がすでに落ち、船の装備が破損し、風も強くなっていたことから得策ではないとして、台風が静まることを待ってから軍隊を整えて再遠征しても遅くはないとしたが[51]、結局実現はしなかった。
日本側の記録

日本側の同時代資料には少弐満貞の注進状がある。その内容は、以下のようなものであった[1]。「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。異国大将二名を生け捕りにし、その白状から、今回襲来した五百余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢であること、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風のために唐船は到着せず、過半は沈没した。合戦中に奇瑞が起こり、また安楽寺(太宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。

対馬侵攻が実施されたのは、ちょうど幕府と明との関係が悪化していた時期であった。『看聞日記』の5月23日の記載には、「大唐国・南蛮・高麗等、日本に責め来るべしと高麗より告げる。室町殿仰天す」とあるが、8月7日に少弐満貞が対馬に「蒙古舟先陣五百余艘」と注進したために、幕府と朝廷は三度目の元寇かと恐れ、対馬侵攻をその前兆と考える向きもあった。室町幕府はこの年、大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に派遣した。翌年朝鮮からは回礼使・宋希m一行が来日する。京都に着いた宋希mは、初め将軍・足利義持に冷遇された。その原因が、応永の外寇にあると知った希mは、陳外郎や禅僧らを介して、外寇の原因は倭寇にあることを力説し、義持の理解を得るに至った。こうして日朝関係は国家レベルでは和解した[52]

また8月13日の『看聞日記』は7月15日付けの「探題持範注進状」として、以下の内容を紹介している。6月20日、「蒙古・高麗」の軍勢500余艘が対馬島に押し寄せ、対馬を打ち取ったので、「探題持範」と太宰小弐(満貞)の軍勢がすぐに対馬の「浦々泊々の舟着」で日夜合戦したが、苦戦をしたので九カ国(九州)の軍勢を動員し、6月26日に合戦をし、異国の軍兵三千七百余人を打ち取り、海上に浮かぶ敵舟千三百余艘は、海賊に命じて攻撃させ、海に沈む者が甚だ多かった。雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗り移り、軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど、合戦の最中に奇特の神変が多く起こった。6月27日に異国の残る兵はみな引き退き、7月2日には全ての敵舟が退散したが、これは「神明の威力」によるものである。

300年後に編纂された『宗氏家譜』(1719年)によると、対馬側の反撃により糠岳で朝鮮左軍が大敗する等、苦戦を強いられた朝鮮軍は撤退した[7]。この際の日本側の戦死者を123人、朝鮮兵の死者を2500人余りとしており[7]、探題持範注進状の3700人に近い数字となっている。
対馬の使臣

朝鮮王朝実録によれば、9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、印章の下賜を求めたという[53]。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた[54][55]。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希mが対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける[55]。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定した[56][57]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:56 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef