応永の外寇
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その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという[12]。「高麗史」、「高麗史節要」に拠れば、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出したという[13]康応の外寇)。

高麗が朝鮮に代わった後にも倭寇は朝鮮半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、室町幕府将軍足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事によって、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。

しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
朝鮮側の記録

ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。西暦日付はユリウス暦で示す。
対馬侵攻の決定

朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが[14]、応永26年5月7日(1419年5月31日)、対馬での飢饉によって数千人の倭寇が明の浙江省に向かっていた途中、食糧不足で朝鮮の庇仁県(今の韓国忠清南道舒川郡)を襲撃し[15]、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した[16]。この倭寇は5月12日6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し[17]、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した[18]。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬と壱岐からの倭寇ということを知り[19]5月14日6月7日)、対馬遠征を決定。国王・世宗に出征を命じた。

朝鮮側は5月23日6月16日)に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え[20]5月29日6月22日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した[21]。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。

対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17,285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた[22]

朝鮮軍司令部の構成は次の通りであった[23]

三軍都體察使:李従茂

中軍節制使:禹博・李叔畝・黄象

左軍都節制使:柳湿

左軍節制使:朴礎・朴実

右軍都節制使:李之実

右軍節制使:金乙和・李順蒙

太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ盗賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じた[24]
糠岳での戦闘

6月19日7月11日)、朝鮮軍は巨済島を出航した[25]

6月20日7月12日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。対馬の盗賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した[26]。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れて険阻な場所へ走り込む[27][28]。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、宗貞盛に送った。だが答えがないと[29]、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした[30]。また同日、倭寇に捕らわれていた明国人男女131人を救出する[31]。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、僅かな食糧を持って山に逃げ込んだ盗賊たちの飢え死にを図って、長く包囲し留まる意を示す[32]

6月29日7月21日)、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する[33]。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、対馬側はすでに壱岐の松浦党に援軍を要請し険難な山の奥に伏兵を配置していた[34]。そして朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死した。だが朝鮮右軍が助けに入り、右軍の武官・李順蒙が対馬側の先鋒の指揮官らしき者を矢で射ち殺すと、対馬側は退いた[35][36]
撤収

6月29日、遠征の報告のため朝鮮に戻っていた従事官、趙義?が対馬に帰ってきた[37]。この時、崔岐という太宗の使いが同行しており、遠征軍に二つの宣旨(手紙)を届け、全てを仔細に李従茂と論じたとおりせよと命令した[38]。その内容は、「7月は暴風が多いため、長期的に留まることを避けること」[39]、および「李従茂は宗貞盛及びその他の日本人に太宗の意を論ぜよ」[40]というものであった。このような楽観的とも言える宣旨がなされたのは、この時点では朝鮮軍が敗北したとの報告が太宗には届いていなかったためであった[41]。また、宗貞盛からも「朝鮮軍が長期間留まることを恐れるため、修好と撤退を願う。7月は暴風が吹くため大軍が留まるのは(朝鮮側にとっても)良いことではない」との文書が送られた[42]7月3日、軍船は対馬から巨済島に撤退した[43]
損害

『世宗実録』では6月29日の戦いで死者百数十人[44]7月10日8月1日)の記録として戦亡者180人となっている[5]。朝鮮側は戦没した朝鮮軍の遺族全員に米と豆を支給した[45]。対馬側の被害は正確には知られてないが、朝鮮の史料によると対馬の人命被害は200人に近く、対馬の糠岳には殿様壇という墓があり、戦死した対馬の守護宗貞茂の墓と伝えられているが、実際貞茂は前年に病死しており、誰の墓かは判明していない。
撤収後の影響

糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に帰らせて我が国の弱点を見せることはできない」という左議政(高位官吏)の主張があった[46]。そのため、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「戦死者、倭人20人余り、朝鮮人100人余り」と朝鮮側の被害を多く言った。これについて、崔雲等が「中国は北方民族との戦いで、遠征軍の兵士たちの過半数を失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と主張し、太宗がこれに賛同し、中国人たちを明国へ帰すこととなった[47]。朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂も朝鮮の大臣たちの非難を受けたが、朴実の敗戦の罪は司令官の皆にあるとし、東征(対馬遠征)にとって勝利も多かったとして[48]、後に朴実は免罪、李従茂は昇進する事になった。対馬遠征で功績があると官職を受けた朝鮮人は200人余りであった[49]。また対馬については、「我が族類にあらず(島倭非我族類)」と前言を翻し、さらに朝鮮の京中・慶尚及び全羅道にいた対馬人を僻地に移転させることを決定[50]した。


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