応仁記
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 歴史家の家永遵嗣は作者を細川高国周辺の人物ではないかと唱え、当時の政治情勢から富子を乱の元凶とするでっちあげを書いたのではないかと仮定している。また、富子の依頼書状については応仁記に載せられておらず、他の史料にも記録されていない上、宗全は義尚誕生前の寛正6年(1465年)に斯波義廉畠山義就など他の諸大名と共に義尚の叔父で将軍候補者の足利義視と結びついていたため、富子の依頼は応仁記の創作とされている。石田、P2 - P8、P185 - P190。また、同じく歴史家の呉座勇一も家永説を支持する立場から、将軍家の後継問題は足利義尚の成長までの中継ぎとして義視が将軍職を継ぐことで当事者間の合意が成立したにもかかわらず義尚の養育をしていた伊勢貞親が義視の排除を目論んだために発生したのが文正の政変であり、その後の政権構想を巡って現状維持を図る細川勝元・畠山政長・京極持清と、これに反発する非主流派である山名宗全・斯波義廉が畠山義就を引きこんで一種のクーデターが発生した結果、御霊合戦と続く応仁の乱に至ったとしている。呉座は@永正年間に成立した足利義稙(義視の子)ー細川高国(京兆家・系譜的には勝元の養孫)?畠山尚順(政長の子)の連携の正当化を図る必要があった(細川勝元の子で高国の養父である細川政元は明応の政変で義稙を失脚させ、政長を攻め滅ぼしている)。A女性による利殖活動や政治参画を快く思わない当時の人々の女性に対する偏見が富子を悪女に仕立てたこと。Bそもそも応仁の乱の本当の原因と言えるのは畠山氏の家督問題に様々な人々が思惑含みで絡んだことで収拾つかなくなった点に尽きるが、当時の人々にはそれだけで天下を揺るがす大乱が起きると信じられずに他の原因を求めた。などの要素が『応仁記』編纂の背景にあったとしている(呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川書店、2018年) ISBN 978-4-04-082122-1 P180 - P202)。

参考文献

石田晴男
『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。

関連項目

室町時代資料の一覧

関連作品

応仁記 (
ウォーゲーム日本史

外部リンク

芝蘭堂
- ウェイバックマシン(2000年1月30日アーカイブ分) - 応仁記現代語訳

記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:6598 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef