応仁の乱
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注釈^ 応仁の乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなったとする説もあるが、応仁の乱以降も室町幕府は衰退しつつ影響力が一応維持されていた。このため、明応の政変以後を戦国時代とする説も存在する。
^ 『応仁別記』には富子と宗全の働きかけにより義政が義就の上洛を許したという記述がある(家永遵嗣 2014, p. 32)。
^ 義政は大乱の元凶は両畠山氏の騒乱にあるとする姿勢を保ち、5月と9月に義就の河内下向で事態の沈静化を図った。しかし、その義政が家督交替に関与していて、東軍に取り込まれて中立姿勢を取っていない以上停戦命令は無意味であり、戦争の解決に繋がらなかった[40]
^ 乱の初期には伊勢に侵攻し東軍の土岐氏領を攻めていた。
^ 史料に登場する六角亀寿丸は六角高頼の幼名とする説と、別人の六角政頼とする説の両説がある。ここでは通説に従い高頼を記載する。
^ 正式に赦免されたのは文明10年(1478年7月10日(室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 302)
^ 壬生晴富の日記『晴富宿禰記』の文明11年7月11日の条として「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」とあり、瀧川政次郎はこの「南方宮」が西陣南帝のことであるとしている。
^大乗院寺社雑事記』内の『尋尊大僧正記』文明9年7月には富子が「畠山左衛門佐」に一千貫を貸し付けているという記録がある。永原慶二はこれを西軍の主将畠山義就(右衛門佐)と解釈している。しかし、西軍に参加している守護大名の畠山義統(左衛門佐)という研究者も存在する[72]呉座勇一は尋尊が東軍の畠山政長(左衛門督)をしばしば「左衛門佐」と誤記していることを指摘し、富子が東西両軍に金を貸しているという批判は誤りであるとしている[57]
^ また室町幕府も明応9年をはじめ、以後の祇園祭に度々介入して主導権の回復を図り実際に戦国時代初頭には幕府の命令による祇園祭の延期や年2度開催が度々行われた。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。

出典^ キーン, p. 83.
^ 百瀬今朝雄「応仁・文明の乱」(『岩波講座日本歴史7 中世3』岩波書店、1976年)
^ 大阪府, pp. 54?59; 桜井, pp. 283?285; 石田, pp. 109?111, 124?125.
^ 桜井, pp. 299?300, 304; 石田, pp. 136, 160?162.
^ 大阪府, pp. 59?65; 小川, pp. 135?137; 石田, pp. 163?165.
^ 石田, pp. 147?157, 165?174, 182?185.
^ 桜井, p. 301.
^ 石田, pp. 160?165, 177?179; 川岡, pp. 109?111.
^ a b 家永遵嗣 2014, p. 9.
^ 家永遵嗣 2014, p. 9-10.

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